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スクールカーストとコミュ力偏重

◉どうもスクールカーストという言葉に、特別な意味を込める人が多いですし。でも帰国子女やアメリカ留学経験者などに言わせると、向こうのスクールカーストと日本のそれは、比較にならないようですけれどね。ただ、日本とイギリスなどのクラスルーム方式の教育システムと、メリカのホームルーム方式の教育システムとでも、イジメの発生率などは異なるようですから、そもそもの文化が違うようで。そうなるとシステム論から語らないと、けっきょく個人の問題に、収斂させてしまう危険性は感じますね。

【「勉強ができる」「絵が上手い」「文才がある」ことはほとんど無意味…!? 現代のスクールカーストを決定づける“意外な要素”とは】文春オンライン

 自身の価値を他者からの承認に圧倒的に依存しており、「自己承認」が苦手な人が多いといわれる若い世代。それだけに彼らの多くは他者からの承認に依存している。SNSが当たり前のようにある時代を生きる若者たちは、いかにして「承認依存」に陥ってしまうのか。そして「承認依存」はどのようなメリット・デメリットがあるのか。

 ここでは精神科医の斎藤環氏が、「自分が嫌い」をこじらせてしまった人たちの、自傷行為のように見える言動について迫った『「自傷的自己愛」の精神分析』(角川新書)の一部を抜粋、紹介する。(全2回の1回目/後編を読む)

https://bunshun.jp/articles/-/59240

ヘッダーはMANZEMIのフォトギャラリーより、角丸ロゴです。

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■スクールカーストの日米差■

アメリカンフットボールのプロチームがない州とかだと、大学リーグがその代わりを果たしているそうで。人気の大学だとアメフト専用球場で、5~6万人とか入るスタジアムを持っている大学もあるとか。そういう社会ですから、アメフトの人気選手とかもう高校時代から女性にモテまくりで、入れ食い状態。そして体格に劣る東洋系などは最初から馬鹿にされていて、その上オタクだとナード呼ばわりで、上流カーストからは相手にもされず……という感じのようですマッチョイズムの国ですから。

それでも、日本やイギリスなどのクラスルーム方式の教育システムだと、メンバーが固定されるため、陰湿なイジメという形が起こりやすいのですが。ホームルーム方式のアメリカだと、イジメがないわけではないですが、日本とは質が違うようで。そもそも、陽キャグループに入れない。そういう意味では、日本的な意味でのコミュニケーション能力と周囲との関係性を、スクールカーストという外来の概念で纏めるのには、自分は違和感があります。日本の天皇制とブルボン王朝の絶対王政を、共産主義思想で雑にまとめるようなもので。

さて、この話題がなぜ、MANZEMIのカテゴリーに入っているかと言うと。漫画家になりたい人間を指導している立場として、「漫画家はコミュニケーション能力が低くてもなれる職業」という誤解が投稿者や周囲にあるのに、しばしば直面するからです。最初に断言しておきますが、漫画家ってコミュニケーション能力めちゃくちゃ高いですよ。普通に会って打ち合わせしても、能弁な人が多いです。奇矯な部分はあっても、それとコミュ力はまた別の問題です。

■コミュ力ってなんですか?■

もちろん吃音症や赤面症の人もいますが、それはコミュニケーション能力とは別の話なんですよね。対話能力であって、コミュニケーション能力とは微妙に違う。そもそも作品という間接的な手段によって、他人を笑わせたり泣かせたりする能力って、コミュニケーション能力がメチャクチャ高くないと無理です。そのコミュニケーション能力の高さと、滑舌の良さがあれば芸人などになり。文章力や絵を描く能力があれば小説家や漫画家などになる。そういう、根本能力の部分とインターフェースの部分を、混同して語る人が多すぎますね。秦の始皇帝と韓非子の逸話のように。

引きこもってカリコリ漫画を書いているイメージがありますし、それは事実ですが。単に仕事量がハードワークだからというだけで、コミュニケーション能力が低くても通用するというのは大きな間違いです。藤子不二雄の F 先生はかなりの人見知りでしたが、打ち解けた人間相手には有名だったそうですから。コミュニケーション能力というよりは、相手が心の奥底で何を思っているかを見抜いたり察する能力と言った方がいいのかもしれません。

コミュニケーション能力とは実は、その能力。ところが、コミュ力といったときに、俗流本やビジネス本で説かれているのは、インターフェイス能力───滑舌の良さや話題の豊富さ、あるいは笑顔で相槌を打つ能力や聞き上手な能力の話ばかり。漫画で言えば、絵は上手いけれどキャラクターが立っていない作品みたいなものです。結果、ビジネスの世界でここ20年ぐらい言われる「AO入試組は使えない」という話に繋がってきます。

■AO入試組の問題点とは?■

AO入試はそもそも、試験での一発入試でこぼれてしまう、能力はあるのに本番に弱いタイプとかをうまく拾うために機能するものでした。ところが、この枠が拡大すると、要するにコミュ力が高くて教師には気に入られるけれど、クラスメートには嫌われるタイプの人間の、抜け道になってしまいがちになったわけです。皆さんもいましたよね、クラスにそういうタイプ。そういうタイプは、口八丁で世渡りするのはうまくても、コツコツと何かを研究したり、作り出すのは苦手。でも、学歴は立派なので、面接でも人柄良さげで、つい騙される。

指定校制度の推薦も同じで、実力ある人間が大いにしても、教師の覚えめでたいタイプが潜り込んでくる。さらに偏差値28の高校が、ミッション系の推薦枠を利用して、上智大学や明治学院大学など、ミンション系大学に入学してきているのが、可視化されました。まぁ、昔だったら神学部とかあるミッション系大学は多かったですからね。我が母校の渋谷腐れナンパ大学もそうでしたが。従順なので、左派の教授とかの良いコマンダーになるのですが。弱肉強食の企業では、化けの皮が剥がれてしまいますね。結果、「AO入試組は使えない」ということに。

個人的な意見ですが、そんな軽佻浮薄なコミュ力なるものに右往左往するより、勉強ができたり、絵がうまかったり、文才があることが長い人生においては、絶対的に有利でしょうね。学生のうちは、学校がすべてに思えるかもしれませんが。長い人生で見ると、自分の特技や好きなものがある人間のほうが、人生ではプラスですよ。オタクをバカにしていた会社員が、定年退職後に会社にしか居場所のない、会社の看板や肩書がなければ「何者でもない自分」に気づき、呆然とするように。

■学校や組織の外に居場所を■

そもそもオタクという言葉自体が、アニメや漫画やフィギュアや鉄道などなど、メインカルチャーではなかったジャンルの愛好者たち、80年代にはマニアと呼ばれていた人たちの中で、コミュニケーション能力に難がある人たちを指していただけで。蔑称でした。それが宮崎勤死刑囚が起こした事件によって、マニア全体を指す言葉として90年代に変質した面がありますしね。確かに、そういうオタクは馬鹿にされていましたが。でも排除されていたわけではないんですよね。これがスクールカーストであれば排除されていたでしょうけれど。

嫌悪はしても排除はしない、これってかなり重要なことです。だって現在のツイフェミとか、自分たちが嫌いというだけで萌え絵などの表現を排除しようと、異常な攻撃性を発揮しますよね? 広河隆一氏や園子温監督やシャブ牧師には沈黙するくせに。あれこそ、スクールカースト的。コミケの理念は、表現したい人間を排除しないという点で、多様性にかなり配慮しているのですが。とんねるず的なノリで、宅八郎氏が演じた誇張されたオタク像を、いじめる姿を笑っていた層は、渋谷や新宿に高校時代から入り浸ってウェイウェイ言ってた層と重なりませんかね。

個人的には、イジメとかはクラスルーム制度の逃げ場のなさや閉塞感が大きいので。その意味では、学校や会社以外に、自分の居場所を見つけるって、大事です。自分はサラリーマン時代、呉智英夫子の以費塾やブラジリアン柔術の道場、落語好きの交流など、外部に居場所を求めました。けっきょく、そっちに居場所があれば、代替になりえますし。『ぼっち・ざ・ろっく!』のコミュ障で友達がいない主人公の後藤ひとりが、見つけたい場所が学校外のバンド活動であったように。どんな場所でも良いんですよね。

■人間は演じる生き物である■

スクールカーストはしょせんスクールカースト。確かに3年間、クラスで浮くのは辛いかもしれませんが。馬齢を重ねたオッサンとしては、人生のたった3年、そこで命を断つのはダメだよと。学校なんて、命と引き換えに行くようなものではないですから。ただ、深刻なイジメならともかく、コミュ力がなくて友達がいないなら、外の世界に友達を求めていいし、それこそ昔はそういう人間は文学の中に、自分と同じ人間を探して見つけたわけで。創作物はあなたを救わないかもしれないが、創作はあなたを救う可能性が高いですから。

 仮に誰かに傷つけられたとしても、所詮それは演じられたフェイクの仮面キャラなのであって、「本当の自分」とは関係ないと割り切ることもできます。同時にそれは、人生において誰もが避けて通れない「ある役割を演ずる」という行為の予行演習にもなるのです。

同上

戦後最大の思想家と評する人もいる、保守思想家の福田恆存は、人間はありのままに生きるのではなく、何らかの理想の自画像を演じる生き物だと、喝破しました。ありのままの自分は、素晴らしいと戦後民主主義は教えてきましたが。現実の自分は、都合が悪ければ嘘もつくし、悪事も働く。しかし、それを恥じたり後悔したりする心もあります。そこを拡張して、あえて理想の自分を演じる。まぁ、そこが無理なら趣味の世界に生きる。太田光さんは高校3年間、友達がいなかったそうですが。そういう孤独を抱えることと、そこを乗り切ることができれば、創作者になれるかもしれませんし。創作者になれなくても、趣味で人生は充実します。

後編は、いきなりカルト宗教と自己肯定感の話になるのですが、これはこれで読んで損がないです。

【カルト宗教の“信仰”と同じ構造になっていることも…“自己肯定感”を高めようとするさまざまなテクニックの危険性】文春オンライン

 失敗やミスをしたときにも前向きな考えを持てる。 前向きな気持ちを持てることで、チャレンジ精神を持って行動できる。チャレンジ精神を持てることで成功に近づく……。自己肯定感を高めることで得られる種々のメリットはネット上で頻繁に喧伝されている。

 しかし、精神科医の斎藤環氏は、インスタントに幸福度や自己肯定感を高めることは危険性も孕んでいると指摘する。はたして、その真意とは。同氏の新著である『「自傷的自己愛」の精神分析』(角川新書)の一部を抜粋。紹介する。(全2回の2回目/前編を読む)

https://bunshun.jp/articles/-/59241

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