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「ラノベ作家の文章なんか中学生でも書ける」は正確な分析か?

下書きのまま放置していたnoteを、きちんと公開しようシリーズ。たまには真面目に表現の技術論を。そもそも、このnoteを書こうと思った発端は、こちらのツイートでした。

コレに対する反論が、青識亜論さんのこちらのツイート群。

ラノベにも技工はある、というごく当たり前の反論ですね。そりゃあ、夏目漱石や森鷗外のような教養と格調のある文章は、難しいですが。当然ですね。どんな文章でも、継続した商売になるためには大なり小なり、技巧は必要です。一発屋ならともかく。

どうも、作品世界に引き込む上手さを、青識さんは重視されてるようですね。それは文章力よりも語り口や切り口、描写する順番や構成の部分が大きいのですが。

こちらは展開や語り口の上手さを、世界観の構築という意味で使っておられます。アイデアの奇抜さや着眼点の斬新さ、などに分類されますが。

上手い役者は、下手な役者の演技もできるんだと、『マリリン 7日間の恋』でミシェル・ウィリアムズが見せつけましたが。かのパブロ・ピカソも「ようやく子供のような絵を描けるようになった」と語ったとか。幼くして高い技術を誇ったピカソは、写実的な表現力も色彩感覚も備えていて、殻を打ち破るためにキュビズムに向かったわけですし。
漫画に対しても同じような、侮蔑の言葉を投げつけてくる美術関係者や直木賞作家がいます。ということで、自分なりに思ったことを。

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■上手さって何ですか?■

さてさて、文章の上手さと一口にいっても、 千差万別です。そもそも、小説の上手さ以外にもいろいろありますから。物書きや小説家ごとに一家言あり、文章読本は多くの小説家が出しています。それぞれ考えはあるでしょうけれど、少なくとも以下の種類の上手さはあると、自分は考えます。上で青識さんのツイートに対して大雑把に呟いたことを、少し整理分類してまとめると、こうなります。

・広告文的な、人々の印象に残ったり想像を刺激する上手さ
・説明書的な、情報を誤解なく精確に読み手に伝える上手さ
・詩文的な、視覚的イメージや経験・記憶を刺激する上手さ
・詞文的な、リズムや口に心地よい語呂の良さを選ぶ上手さ
・落語的な、セリフの選択と各キャラ性を演じ分ける上手さ
・論文的な、ロジックの厳密さや記述ルールに沿った上手さ
・檄文的な、感情を揺さぶり読んだ人間の行動を促す上手さ
・小説的な、作品世界に引き込む語り口や人物描写の上手さ
・脚本的な、小説的な要素を時間軸に沿って構成する上手さ
・散文的な、上記の要素を過不足なく持った総合的な上手さ

アイデアの斬新さやユニークな視点は、上手さとはまた違いますので除外します。これらは相互に、重なる部分も大きいです。落語なら情景が目に浮かぶ上手さは詩文的ですし、檄文は論文的なロジックの厳密さやキャッチコピー的な印象に残る上手さもないとダメですしね。詩文や広告のキャッチコピーなどの要素など、雑多に含みますが。散文の上手さはさらに、以下の巧拙に分類できそうです。

・描写力
・解説力(理解力とセット)
・イメージ喚起力
・レトリック
・文体(識別記号)
・構成力(主観表現・時間表現)
・展開力(語り口)

描写力というと、正確な描写が正しいと思いこむ人がいますが、例えば李白の「白髪三千丈 憂いによりてかくの如し長し」という、現実には絶対にありえない誇張された表現のほうが、人の心に届くことはあります。一日千秋(中国では一日三秋)とかもそうですね。絵画やイラストでも、写実的な方が難しいとか高級だとか、思い込んでる人が多いです。個別に解説やってると切りがないので、割愛。

で、文学界には芥川龍之介と谷崎潤一郎の、文学論争なんかあったりします。文豪同士の論争ですが、この論争はかいつまんで言うと、それぞれが主張するどちらがいいか、という論争です。

・作為や技巧に富んだ小説(谷崎潤一郎)
・話らしい筋のない小説(芥川龍之介)

こう書くと白か黒か、ゼロかイチか、二者択一のように感じますけれど。しかし作為や技巧ってのは、上で挙げたようなキャッチコピー的な上手さやレトリックの上手さ、物語の展開や構成の上手さも複合的に含んでいて、ややこしいです。

ラノベは文章下手とか安易に言っちゃう人も、だいたいこれらをゴッチャにしてて未整理、自分が理解できる範囲での巧拙の判断をしてるに過ぎないです。さらにレベルが低いと「誤字があるからコイツは下手」みたいな、Amazonのレビューレベルのことを言い出す人間もいます。誤字脱字のチェックは、校閲という専門部署ができ、それだけでも食っていけるプロの領域。作家は校閲マンではありません(キッパリ)。

■上手さの評価は難しい■

そもそも、筋がない小説を是とした芥川龍之介の小説も、技巧はありすぎるぐらいある訳で。芥川が小説に求めた「魂の奥底から自然と湧き上がってくるようなもの」って、技術的には稚拙なルソーの絵にピカソが見出した、童心のようなものでしょうかね。尾崎放哉の自由律俳句「咳をしても一人」のような、人々の共感を励起する文章でもありそうな。それは詩や和歌俳句に、より在りそうです。

でも、そういうものって、商業主義のキャッチコピー的な上手さとも通底するわけでして。「おいしい生活」は自由律俳句じゃないのか……という疑問。じゃあ、上手いキャッチコピーや自由律俳句を並べれば、一篇の小説になるか? ならないですよね。イラストレーターの描く漫画がイマイチのように。前記以外の技巧も含め、小説はもっと総合的な上手さの集合体です。それは、ある部分の下手さが他の部分の上手さを引き立てたりする点も、含みます。

そもそも『源氏物語』にしろ『枕草子』にしろ、和歌を随所に配し、読む人の視覚イメージや共感を励起する詩文を、散文の中に織り込んでいます。でも詩文としての和歌は、中古三十六歌仙の一人だけあって『和泉式部日記』のほうが優れているという一般的評価もあります。だからと言って『和泉式部日記』が『源氏物語』よりも上手いとは、軽々に断じられませんよね? 当然です、評価軸が違いますから。

■上手さと個性は別基準■

「ラノベ作家の文章なんか中学生でも書ける」なんてのは、漫画の世界だと「西原理恵子の絵なんて小学生でも描ける」という暴言と同じで、そりゃ描くだけならねぇ〜、という話でしかないです。それで西原先生のように読者を笑わせられるか、感動させられるか、売れるかは、ま〜ったく別の話です。木を見て森を見ず。単に模写だけなら自分だって、中高から大学の頃にコレ↓ぐらいは描けましたから。

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美樹本晴彦先生のガンダムのOVA『ポケットの中の戦争』の模写だったはず。高校の頃。

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士郎正宗先生の『攻殻機動隊』の模写。ヤンマガ増刊の連載中、大学の頃。

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加藤&後藤先生の画集の模写。たぶん大学の頃。

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でも、こういうイラスト的な上手さは、物語を綴る上手さとは別物です。商業プロにおいては、誰が見ても○○先生の絵だとわかる個性のほうが、はるかに大事です。模写から入っても、個性の確立がないと、器用貧乏なフォロワー。小説家だとそれは、文体と呼ばれる部分でしょうか。絵が上手いだけで、自分の個性がないなら、プロの漫画家は難しいです。上手さと個性的は、別の基準。これをゴッチャにする人間が、とても多いですね。

■上手さの基準はどこ?■

絵は上手いけれどこれといった個性がないなら、アニメの動画マンや原画マンになれます(何を描いても個性が強く出る人間は原画マンにも動画マンにも向かないです。なお、価値の上下の話はしていません)。しかし、クセが強すぎるけれどオリジナリティのある人物が描けるなら、キャラクターデザイナーや漫画家になれるかもしれません。でも、面白いストーリーが描けるかは、また別の話。

オリジナルの絵があって、話が作れて、演出力があると、宮崎駿監督のような映像作家になれるかもしれません。でも、庵野秀明監督のように高い画力はあっても、キャラクターデザインは貞本義行先生に作画監督は他の人物に任せて、原画も動画も描かず、でも作家性を発揮する人もいます。さらに高畑勲監督のように、絵がほとんど描けなくても優れた演出アイデアや、監督作品を生み出して、宮崎駿監督を唸らせるタイプの人もいますから。

最初の論点に戻せば、こういう部分がわかれば「ラノベ作家の文章なんか中学生でも書ける」なんてのが、いかに底が浅く薄っぺらい議論か、わかりますよね? 「 書くだけなら、そりゃ書けるよね、だから何?」って話でしかないです。繰り返しますが、書けることと商業的な成功は、あくまでも別の話ですから。それで何か解った気になって、屋下に屋を架しても、その議論から得るものは少ないです。

■上手さは総合的な判断■

自分は、漫画の絵は小説家の文字のような記号──という考えなので。小説家が文字だけを使う代わりに、絵も使って物語を紡ぐ小説家の眷属が漫画家。手塚治虫先生が、自分の絵は記号だというのは、文字と同じだよと言ってるのです。その受け売り。してみると、キャラクターデザイナーや脚本家や作画監督や背景などの個々の才能をまとめ上げるアニメの監督もまた、小説家に例えることが可能と。

文体もアイデアも技巧も自分では持ち合わせていなくて、文章を書きさえもしないけれど、小説家たり得るのか? たぶん可能です。前述の『和泉式部日記』が本人作ではない可能性があるように、井原西鶴の著書の多くが弟子の代筆の可能性があるように、そこら辺が考えるヒント。ちなみに自分は「小説家に文体は必要ないが戦略として作ったり、個性として滲み出るのはあり」と思っています。

芦辺拓先生の小説講座も好評でしたし、自分も文章をどう教えるか、という気づきを得ました。結論だけ言うと、先ずはアニメの動画マンや原画マンのように、個性を消すことから始めるのはありだろうな、と。ある落語家も、前座はむしろ個性を殺して基礎を固める、とおっしゃってましたし。かつての新日本プロレスの前座も、パンチキックエルボーだけで試合を組み立てたようなもので。

土台という基礎の上に、作家個々人の個別性が構築される。それは、UNIX系のオープンソースフリーBSDをベースにしたDarwinが、MacOSやiOSの基幹部分にあって、インターフェイスはApple独自のものが構築されているようなものです。基幹部分はできるだけ無色透明で万人向けであるべき。逆に、インターフェイスは個性的な方が、読者に届きやすいのも事実。チャンスがあれば小説講座の第二期も開催してみたいところです。
どっとはらい

参考note:
「ぼくはきみがすきだ」だけで説明する作文攻略法

ユニバーサル日本語


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