笑いを見下す文化人
◉脳科学者の茂木健一郎氏が日本のお笑いを、小学5年生レベルの話題で満足していると、演者や観客をまとめて批判しています。笑いのタイプに、好き嫌いがあっても全然構わないのですが、それは個人の感想に留めておくべきで。専門家でもない人が、上から目線で表現の上下優劣を語ることほど、滑稽なことはありません。ご自身の専門に引きつけて、脳科学の視点から笑いを語るのならば、ともかくとして。レベルの話をし出すと、炎上して当然です。
ヘッダーはnoteのフォトギャラリーより、メイプル楓さんのイラストです。
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■発想がマルクス&ヒトラー■
成長する方が高等というのは、社会進化論的な考え方ですね。はっきり言えば、マルクスやヒトラーの進化論への誤謬と同じです。ダーウィンの進化論は自然淘汰であって、適者生存。ところがマルクスはこれを優勝劣敗の考えと誤解して、進化している方がより高等でえらいと、上下優劣で考えたわけです。だから共産党一党独裁の社会こそが、究極進化系と夢想したのですが……んなことはなく。
進化した方が偉いなら、地上には究極進化した草食動物1種類と、これまた究極進化した肉食動物1種類でいいことになりますから。ヒトラーとナチスの優生学もこれと同じ誤謬で、白人は黒人などよりも進化しているから偉いと言おうとしたら、実は黄色人種の方が遺伝的には、より進化していたとオチがついてしまいます。進化とは単なる環境適用の変化ですから。シーラカンスだって適した環境があれば、何億年も進化する必要はありません。
自分などは落語が好きですが、その落語に関しても昭和の名人・古今亭志ん生は、落語というものは面白いものではなく、人間の心の裏の裏をえぐって乙なものなんだ、と語っていましたね。没後半世紀近くが経っても、新たなファンを獲得している志ん生の落語ですが。確かに面白くて笑えるのですが、それは単純に笑いだけを追求しているのではなく、人間を描いている。人間の深いところをえぐっている。だからと言って、子供がわからないかといえば、そうでもないんですよね。
■文化人の文化論のダメさ■
週刊少年ジャンプ全盛期を用意した西村繁男編集長が、子供騙しと言うけれど子供は騙せないんだよ、という名言を残されています。小学5年生レベルだから低いと断じる茂木健一郎氏よりも、深い視点だと思いますよ? もちろん上下優劣で、語るつもりはありませんが。日本の映画やドラマは、セリフで説明しすぎてレベルが低いという意見も見かけましたが、意図的に説明セリフを多くしている橋田壽賀子先生の『おしん』は、世界で通用しました。
どうにも文化人による、笑いの文化や絵画や音楽や演劇などについての、「これだから日本の文化はレベルが低い」という意見は、だいたい的外れのように思います。単に、自分が好きなものはレベルが高く、嫌いなものはレベルが低いと、言ってるに過ぎないことが多いですから。そもそも日本の文化は、大衆文化から出てきたモノは強いです。見よう見まねで始めた天狗連が、独学で独覚して、名人になる伝統があるのが日本です。
剣術だけでなく、書画工芸にも素晴らしい作品を残した宮本武蔵は我に師なしと語り、講談の広沢虎造は天狗連から名人になり、手塚治虫先生は田川水泡先生にキミが絵画を学んでいないのがわかると罵倒されながらも漫画でもアニメでも結果を残し、DAICONフィルムは庵野秀明監督らを輩出し───。そもそも万葉集の昔から、名前もなき庶民の和歌が、王侯貴族と一緒に残される日本文化ですから。
■非クリエイターの拗らせ■
だから、美大を出てクリエイターにはなれなかった人間とか、拗らせて権威主義者になり、大衆文化をバカにする人間も出てくるんですけどね。あるいは、大衆文化から出たものを、高尚なものに権威化したがる連中も。桂歌丸師匠とか、晩年はそういう感じで、アキラ100%の芸を批判し、四人目の人間国宝を狙っていたとか。でも上方落語は、大衆性を失ってしまい、それで一度滅びかけた訳で。
笑福亭鶴光師匠が初舞台の時、当然ながら客に受けなかったそうで。ところが師匠の六代目松鶴は、おまえは客が労働者階級でどうせ落語なんか解らんと思てるやろ、なぜ下手ですがどうぞ聴いてくださいという了見になれんと、叱ったとか。この教えに目が開いた鶴光師匠は翌日、下手ですがどうぞ聞いてくださいと客に頭を下げ、お客さんも新人の落語を、聞いてくれたとか。
まず大衆性があっての、道を究める職人性が加わって、間口の広さと奥行きの深さの、両方を得ることができるのであって。高尚ぶって間口を狭めてしまえば、奥の深いところに来てくれる客の数も減ってしまうのは、必然です。松鶴師匠と並ぶ上方落語四天王の一人であった五代目の桂文枝師匠が、マイケル・ジャクソンのコンサートに行ったら、米朝師匠とばったり会ったとか。
大御所になっても、その進取の気風が、上方落語を再生させた原動力に思えます。
■貴族と大衆の両輪が大事■
ただし、上流階級から一般大衆へと流れて行く文化というのも、自分は否定はしません。王侯貴族が作り上げた文化芸術が、大衆に流れていく形ですね。でもそうやって、一度大衆に流れた文化が、成熟し科学反応を起こして大衆文化として立ち上がっていく。そういったものが世界に通用するレベルまで、育って行っているような気がいたします。今ではすっかり高級な料理になった寿司も、元はファストフード。ファミレスの名にもなっている華屋与兵衛が、屋台で出した料理ですからね。
天ぷらは、外来の高級料理で、かの徳川家康も亡くなる直前に、鯛の天ぷらを喰っていたのですが。でも、やがてそれが庶民に世界におりてくると、ファストフードとして人気を博し。やがてそれが、高級な料理になる。天ぷらの職人は、最初は日本料理全般をやるのですが、天ぷらに目覚めて天麩羅専門になる人も多いとか。まさに、大衆性と専門性。うな丼も、諸説ありますが、ファストフードですからね。笑いというのも、むしろ大衆性を失ったら、待ってるのは博物館入りや、伝統文化としての保護政策です。
何度か書いていますが、春風亭柳昇師匠が、呼び屋と聞かせ屋という分類をされていましたが。大衆性は呼び屋に、貴族性は聞かせ屋に分類されるでしょうが、両方持ってる人、どっちかに偏ってる人、それも個性なんですよね。葛飾北斎や古今亭志ん生は、一般大衆を魅了し、同時に好事家も唸らせる深みを、兼ね備えていたのであって。それを名人と呼ぶのだと、自分は思いますしね。
ダウンタウンのこのコント、自分はものすごい政治世と笑いが、上手く融合していると思いますけれどね。自民党さえ批判していれば満足な人には、訳がわからんか、わかってて下を向くか、怒り出すかは知りませんが。
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