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志村けんさんのこと

去年の訃報に接して書いたけれど、途中で筆が止まったnote。
一周忌に書き上げました。

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森繁久弥さんもいかりや長介さんも、喜劇人から晩年は人情劇の俳優になっていったが、志村さんはず〜っと喜劇人だった。
別に良い悪いではなく、由利徹さんや東八郎さんの系譜だったのだろう。

東八郎さんから志村さんは、小学生に「志村のバカ」と言われるのはオマエの芸が凄いからだと言われた旨を、以前語っておられたっけ。

惜しむらくは、弟子を取らなかったことか。
これは明石家さんまさんやダウンタウンも同じ。
ただ、弟子に受け継げるモノでもなかっただろうけれど。

師であるいかりや長介さんも、音楽もコントも俳優業も、師匠につかず独学だと語っておられたし。

宮本武蔵も『五輪書』に、「兵法の利にまかせて諸芸諸能の道を学べば万事において我に師匠なし」と記しているし。
独学で道を開くタイプは、師無し弟子無しが多い。
弟子はいても、師の道統を継いで育成システムは構築できないことが多いような。

ドリフの笑いも、昭和の一代の芸なのだろう。
でも、歌手やアイドルといった他分野の人間を、コントに引き込んだ貢献は大きいけど。
田代まさし氏のことは、忸怩たる思いがありそう。

ドリフの笑いについて、もう少し。
ドリフの笑いは、弟子という形では継承されなかったけれど、影響は大きい。
浜岡賢次先生など、笑いのベースはドリフにあると、自分は思っている。

山上たつひこ先生も、直弟子は田村信先生など少数だが。
秋本治先生や江口寿史先生など、多くの才能ある漫画家に影響を与えたように。
桃李物いわざれど自ずと蹊を成す。

ひょうきん族の笑いは、各タレントの個性をベースにしているので、継承がし辛い。
というか、劣化コピーや盗作になってしまう。
だが、ドリフの笑いは台本があって、その上での演者の個性なので。
全員集合よりドリフ大爆笑は、その傾向が強い。
もしもコントとか、シチュエーションコメディの教科書。

編集時代の担当作家に、笑いのセンスが良い新人がいた。
でも彼は自分の8学年下、ひょうきん族直撃世代のはず。
不思議に思って聞くと、小学生の頃は同級生と違ってドリフの笑いが好きで、中高は加トケンを観ていました……と。
後に彼は、高橋留美子先生にそのギャグセンスを褒められることに。

それから十数年後、カメントツくんが高橋先生に褒められるのだが。
クレイジーキャッツからドリフの笑いの系譜は王道だし、ベースは継承できるという思いを持ったものだ。

咲かす花は個性と不可分だが、根っ子の部分は共通するベースがあるはず。
狂言や落語に、連綿と受け継がれている、何か。

高橋留美子先生がどれぐらいクレイジーキャッツやドリフの笑いの影響を受けてるか、面識のない自分には確かめようもないが。
自分が是とする漫画を、世間がまだ気付いていないタイミングで褒めていただけたのは、物凄くうれしかった。
笑いのベースを何処に置くか、確信が持てた瞬間。

番組的には短命だったが、『神出鬼没!タケシムケン』では、志村さんの笑いの引き出しとか、シチュエーションコメディでの方法論の一端が見えて、とても勉強になった。
できれば、もう一度見返したい番組だ。
突然の死で、その方法論が失われたのも痛い。

志村さんの師匠のいかりや長介さんは『だめだこりゃ』という著書を2001年に上梓された。
友人のミュージシャンの死に、自分が思い出を書き残さないと、失われるという焦燥感があったためと。
これが名著で、戦後の芸能史の記録としてはもちろん、生き方とか考え方で、教えられることが多かった。

いかりやさんはその3年後の2004年、亡くなられた。
享年72歳。
自分が物心ついた頃にはもう、40代半ばだったので、もっと老けておられた印象があったのだけれど、志村さんと二歳しか違わない享年に驚く。
ご本人にも予感というか、期するものがあったのかもしれない。
でも、志村さんは突然だった。

志村さんは、ドリフのメンバーになる前に、漫才師であった時代がある。
マックボンボンというコンビ名で、番組も持ったが、短命に終わり、出戻りに。
もちろん自分は記憶にないが、高田文夫氏の著書で紹介されており、業界内ではかなり期待されていたとか。
その時代の葛藤とか、著書に残してほしかったなぁ……。

ドリフから加トケンのコンビ、それ以降は独自の活動が増えたのも、元々は漫才師という部分があったからか。

志村さんが笑いを目指したのは、父親が教育者で、校長を目指す堅い家庭に育ち、その反発もあったとか。
でも、芸名はその父親の名から採っているのだから、複雑な思いもあったのだろう。

ちなみに、ご本人が何かのインタビューで、小学校は分校で、運動会は本校と合同だったが、本校の生徒の多さに緊張し、ウンコを漏らしてしまったそうで。
そうなっちゃうともう、かっこつけても仕方がないのでひたすら道化役に。
自然に、笑いの道に進んだと。
他で見た記憶がないの、うろ覚えだけど。

浮き名も流した志村さんだけど、最初の恋人とは同棲もし、真剣に結婚も考えていたとかとか。
それが上手くいかなかったため、生涯独身であった部分もあったようで。
マックボンボンの自然消滅と出戻り、ドリフでフロントマンになり、ドリフを離れて数々のヒット番組を持った部分とも、なにかと重なる。

芸人になった当初は金がなく、靴も穴が開いて裸足で歩いていたとか。
見かねたテレビ局の小道具の人が、時代劇用の草鞋をくれたとか。
もっとも、草鞋は土の上ならともかく、都会のアスファルトでは三日でダメになったとか。
実家は兄二人も公務員の志村家だが、芸人になるので絶縁してたのか?

笑福亭鶴光師匠の名言に「狂気を演じるのはこの上もない理性である」がある。
お堅い家で生まれ育った常識人だからこそ、爆笑王になれた部分もあったのだろう。
そういう部分も含めて、書き残して欲しかったが。
吉田豪氏あたりが、過去記事を発掘して、そういう部分を拾い集めることに期待。

さようなら、志村けんさん。

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