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『少年時代』と戦後民主主義

◉放置していた下書きを、ちゃんと書き上げて公開しようシリーズ。2020年6月に書いて放置していた記事。発端は弓月光先生のツイート。確かにSNS上で「次は戦勝国になるんだ!」と意思表明する人は、チラチラ見かけます。もちろん、国粋主義的な意味で口にする人もいます。しかし右も左も根本のところは、もうちょっと意味するところは別ではないか……と。そんなことを思いました。

それは「天皇に戦争責任ある!」と言う人に、「それは戦争を起こした責任ですか? 負けた責任ですか? 終戦の御聖断をもっと早く下さなかった責任ですか?」と聞くと、口籠もります。さらに「具体的にどんな責任を取らせたかったのですか? 死刑ですか? 極東国際軍事裁判を否定しますか? 肯定するなら起訴すらされていない昭和天皇は無罪ですよね?」と聞いても、一部の極端な左派以外は口籠もります。

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■どこの国に勝ちたいのか?■

次は戦勝国になりたいと考えてる人は実際、多数派ではないような。もっと細かく分けるなら、「もう一度アメリカと戦争して、今度は勝ってやるぞ」という、そういう人は少数派でしょう。というか、むしろこう指摘されると、ギョッとする日本人のほうが、多数派ではないかと思います。アメリカと戦争する気はサラサラなくて、対米自立を言う国粋主義者ですら、また対米戦争しようとは思うのは少数でしょう。

戦勝国でも敗戦国でもない第三国(実際はオーストリアに近い立場)なのに日本をことあるごとに戦犯国戦犯国と責めてくる韓国や、中華人民共和国への「アメリカには負けたが国民党軍に負けたわけではないし況や共産党軍は逃げ回ってたくせに」といった反感、あるいは拉致にテロに覚醒剤密輸に偽ドル札にミサイル発射に核兵器開発とやりたい放題の北朝鮮への、漠然とした不快感が多数派では?

でも世界的には「日本はアメリカに復讐したいに違いない」と、そう思うのが普通です。日本はアメリカに主要都市を焼け野原にされ原爆まで落とされ非戦闘員を大量虐殺されたのだから、今は表面上は隠していても、いつか復讐してやろうと思っているに違いない……そう認識してるアラブ社会の人とかの話を、SNS上ではたまに見かけます。復讐するは我にあり。目には目を、歯には歯を、原爆には原爆を。

■はだしのゲンが描きたかったこと■

例えば名作『はだしのゲン』は、戦前戦後の広島を、当事者であった中沢啓治先生の記憶を元に描いた傑作です。後半は日教組や共産党の影響を受けて政治的だという指摘はありますし、それは事実でしょう。ですが、そういう部分とは別に、間違いなく傑作です。理不尽な運命に対する恨みの書であり、庶民の側からの記録であり、異議申し立ての主張でもあります。政治的に稚拙な主張に関係なく。

中沢啓治先生が本当に描きたかったのは──これを書くとギョッとされるし、喜多野は国粋主義者だのなんのと言われるのですが──敢えて書きます。それは「親兄弟を殺したアメリカに、原爆を落とし返したい」です。確かに、母親が死んでゲンは、天皇陛下に文句を言うと、母親の遺体を担いで歩き出そうとします。でもコレは、日教組や共産党の影響であって、八つ当たり。本音は前述のとおりだと思います。

実際、ゲンはたちは進駐軍と対立する姿が度々描かれますし、進駐軍の自動車のガソリンタンクに砂糖を入れることでエンストを起こさせる工作が、生き生きと描かれます。アメリカの報道規制とそれに唯々諾々と従ったマスコミ各社によって、日本人の反米意識は隠され薄められましたが。しかし実際は原爆の記憶は民族の屈辱として内在化され、反安保の学生運動などで、ときどき暴発したわけです。

■日本人は尊皇攘夷が国是■

ここら辺は、田原総一郎氏や栗本慎一郎氏も対談で指摘されていた記憶がありますが、60年安保闘争や70年安保闘争で大衆の広範な支持があった裏側には反米意識がある、と。学生たちは学生たちで、穏健路線に転じた共産党から距離を置き、反米反スタ(反米帝国と反スターリン)と、権力的なモノすべてに反対するという、実際は右翼のナショナリズムに近いところへ、シフトしました。

日本人の心を一尺掘ると尊皇攘夷が吹き出す───と評したのは、半藤一利さんでしたか。白村江の戦いで唐と新羅の連合軍に大敗して以降、日本は大陸の王朝と距離を置きつつ、でも疑似皇帝制度を国内で完結させて、ずっときました。独自の元号・日本国号・天皇号は日本の冊封体制からの離脱と、一種のモンロー主義(孤立主義)の表明でもあります。このナショナリズムは、日頃は見えづらいのですが、激動の時代に噴出します。

権力というモノを考える上で、藤子不二雄Ⓐ先生の不朽の名作『少年時代』は、とても重要なテキストになります。原作者の柏原兵三の体験と、Ⓐ先生の体験がミックスされ、とんでもない傑作になっています。権力の座から墜ちたタケシに、かつての子分や1対1では勝てない連中が、徒党を組んで制裁という名のイジメを加えられるシーンが、とても不快で、黙々と殴られるタケシが、戦後日本と重なる訳で。

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■民衆の団結は醜い?■

しかしタケシの暴力にも屈せず、知力と政治力でクラスを糾合し、ついには暴君を打倒したケンスケには、実は自分あまり不快感は薄いんですよね。実力ではタケシと互角だが、カンジキに石版の仕掛けを施し蹴りを食らわせるという、卑怯なタケシの手で敗れたフトシにも、ケンスケと組んだからといって不快感はないです。猿蟹合戦の、臼のようなポジションですから。それより、虎の威を借る狐たちへの不快感。

不快感でいえばシゲルや、タケシを裏切った元子分のノボルやキスケやコウジ。もちろん、彼らがタケシを裏切るにたる部分はキチンと描かれており、むしろタケシの自業自得、自滅と言って良い状況です。しかし同時に、暴君タケシの優しさや女性に対する純情、あるいは暴君としてムリに虚勢を張っていた部分も、読者の自分たちは見ているわけで。堕ちた英雄への憐憫や同情とも違う、切なさ。

『少年時代』という作品は、戦前の大日本帝国を象徴するタケシの、戦後民主主義を象徴するケンスケとその仲間達による、敗北と敗戦を重ね合わせた作品です。個人では誰にも負けなかったタケシが、集団に負ける。それは弱い個が集まって、団結して、横暴な旧権力を打倒する、本来ならば戦後民主主義の理想を体現した、美しい物語であるはずです。なのに、勝利したケンスケとその仲間達は、醜悪です。

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■ルサンチマンを超えて■

本来、藤子不二雄のお二人は、虐められる側の人間でした。リイド社の新年会に集まったベテラン漫画家達を見た友人が、「皆さん、同年代の人より身長低いなぁ……体格に恵まれず、いじめられっ子で、漫画書くか勉強に逃げるしかなかっただろうなぁ」とつぶやいたのが、印象的でした。土山しげる先生は180センチを越える長身で、頭ひとつは抜けた体格でしたが、他の先生方は藤子不二雄Ⓐ先生も含め、小柄でした。

実際、藤子不二雄のお二人は、いじめっ子に漫画の中で復讐するという、精神的勝利と復讐を、幼少の頃からやっておられたわけで。典型的なルサンチマン。それはジャイアンやブタゴリラなどのキャラクターにも、投影されているわけで。というか、ブタゴリラって、酷いネーミングですよねぇ……。藤子不二雄Ⓐ先生の『魔太郎がくる!!』は、いじめられっ子のルサンチマンが爆発した、これまた傑作ですが。

しかし、藤子不二雄のお二方が素晴らしいのは、そういういじめられっ子の怨み辛みを描きつつも、同時にジャイアンの優しさとか頼りがい、リーダーシップもキチンと描いておられるわけで。それは同時に、のび太の情けなさやセコい部分、欲深さ、スケベ、怠け者の部分もキチンと描き、いじめられっ子の一方的な恨み節に堕さない。田嶋陽子センセーの「男社会が〜」の雑な論とは一線を画す、センシティブな部分が桁違いな点でしょう。

■過剰な復讐を好む大衆■

『少年時代』でもっとも印象的なシーンは、権力の座から堕ちたタケシが、数の暴力に対して黙々と無抵抗で殴られる、以下引用のシーンでした。そこには、上記リンク先のnoteでも論じた、過剰な復讐が繰り返されたわけで。それは戦後民主主義の賞賛した、弱者が連帯して強者の横暴を打破する、美しい物語でにはとても見えないです。烏合の衆が徒党を組んで、過剰な復讐を正当化する数の暴力。

自分は「ネット右翼などいない、内実はアンチ左翼だ」と繰り返し書いていますが。もっと言えば、戦後民主主義を賞賛した赤い教師への反発がベース。彼らネット民には体系的な思想があるわけではないですし、そもそも玄洋社の頭山満以来の伝統的な右翼思想は、大アジア主義で興亜論。親韓であり親中であり、アジアの連帯を指向するものです。嫌韓や嫌中のネット民とは、相容れない思想です。

では在特会は何かと言えば、たぶんに戦後民主主義の鬼子。市民活動という態を取り、ケンスケとその仲間のように徒党を組む。お散歩と称し過剰な復讐に走る。でもそれ、大衆の姿です。魔女裁判というと中世のイメージがありますが、実際は裁判制度が整った近世に、気に入らない人間を合法的に告発し、合法的に裁判で死に追いやった大衆。だから、批判して否定すれば良いかと言われれば、ちょっと違うんですよね。だって大衆だもん。

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■右が左で左が右のモザイク■

ネット右翼と勝手にレッテルを貼り、国粋主義や軍国主義の復活を目指す壮大な思想があるかのように、巨悪化するのはかえって本質を見誤ります。中韓を利用して戦前の日本を糾弾し、「自分の国の悪に向き合える私って美しい〜ウットリ♥️」と自己陶酔してる赤い教師たちへの、反発がその本質ですから。こういう赤い教師の陶酔は、魔女を糾弾することで魔女狩りを逃れようという心情と同じ。

結果的に魔女ではないものを魔女と糾弾し、本物の悪意ある魔女を見逃してしまいがちです。実際に戦後の左派は、ソビエト連邦の全体主義と監視社会、中国の人権弾圧と周辺国との幾多の戦争や紛争や覇権主義、世襲軍事独裁国家の拉致という国家犯罪を擁護し、見ないフリをしてきたのですから……。さらに、疑義を挟もう物なら、やれ歴史修正主義だウルトラ極右だとかレッテル貼りで、誤魔化してきたわけで。

同じ手法で、アイツらは戦勝国になりたがってる云々と、またレッテル貼り。でも、戦勝国云々とかのポジションに異常に拘るのって、正に韓国の発想。心理学で言う投影ってヤツですよね? 現実には、そうやって罵り合ってる右も左も、戦後民主主義のパラダイムを疑っていない点では左翼と言えますし、自分の中の尊皇攘夷の気分に無自覚という点で、右翼とも言えます。バラモン左翼やネオ皇道派が出現する理由。

■矛盾を内包するからこそ名作■

なお、『少年時代』は何も、敗戦日本のメタファーとしてだけ読める作品ではありません。戦前の富山の寒村でも、小学生たちの間でイジメやドロドロとした権力闘争、政治があったという点では、戦前を美化しがちな右派への、強烈なカウンターになっています。柏原兵三の自伝的な原作小説『長い道』はそこも描いた名作で、藤子不二雄先生の実感と実体験が加味された『少年時代』は傑作です。

それは名作『はだしのゲン』も同じです。反戦平和を訴えた良書と評価することも、反天皇制の悪書と批判するのも、どちらも一面的です。同書には反米感情も濃厚に描かれ、差別や朝鮮人の傍若無人、賭場荒らし、人骨粉を呑めばピカの毒をさけられるという流言飛語、荒くれ者達が誘拐したゲンの妹の友子を姫様と呼ぶ姿が描かれます。雑多で猥雑で継ぎ接ぎな、でも紛れもない大衆の原像。

優れた作品や作家は、矛盾を内包するものです。間違いなく左派に分類されるであろう手塚治虫・雁屋哲・宮崎駿の3巨匠が、代表作中の代表作である鉄腕アトム・男組・風の谷のナウシカで、特攻を肯定するクライマックスを描いたように。『少年時代』もまた、令和の時代にこそ読まれてほしい作品です。『はだしのゲン』と併せて。

■終わりに■

最後にちょっとだけ、付け足しを。暴君タケシを、弱者たちの団結によって倒し、戦後民主主義的価値観を体現したケンスケですが……裕福な地主の彼の家はたぶん、戦後の農地改革でその財力を失ったでしょう。そうなれば、高い知力と強い意志はあるが、元々はルサンチマンを抱えた、身体が弱いもやしっ子でしかないです。ケンスケの没落もまた、充分に予想できます。

そのケンスケの未来予想図は、国鉄民営化で力を失う国鉄労組や、組織率が下がった日教組、拉致問題で一期に発言力が弱まった朝鮮総連、内部告発でやりたい放題が発覚した同和採用枠の関西各地の公務員、部数を落として一律減給で労組の副組合長が自殺し社長も退任した朝日新聞にも、重なります。驕れる者も久しからず、また春の夜の夢の如し。諸行無常、生々流転、天網恢々。

名作とはかくの如し。

※ヘッダーの写真は井上陽水さんによる映画版の主題歌の歌詞、夏が過ぎ風アザミから。こちらも、永遠の名曲です。

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