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思考を変える|大嫌いだった私のこと。

自分の思考を変える話をしていこうと思う。

でもその前に、自分自身をどのように思っていたのか書いたnoteを見つけたので、こちらをプロローグ的位置づけとする。


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そもそも私は、自分のことが嫌いだった。嘘つきだと思っていた。

それなのに、人あたりよく人と接することができる自分が嫌いだった。誰にでも感じのいい笑顔をつくれることを恥じていた。「誠実」とか「優しい」とか言われることが嫌だった。


本当は、人見知りだし、人と話すことは苦手だし、不遜だし、口も悪いし、冷たい。興味の差も激しい。

それはよくないと聞いたり体験したりしていたから「人当たりがよくて、優しくて、誠実」な人間を作っていた。けれど、この取り繕った自分で人と接することに罪悪感を感じていた。


誠実だと言われると、「この人、だまされてる」と感じた。優しいと言われると、「ばかなお人好し」と言われているような気がした。実際そう思っているのは自分だけど、当時はそう聞こえた。


大人なんてそんなものだと割り切れたらよかったのかもしれないけれど、それもできなかった。

誰かから嫌われること、怒られることを過剰に恐れていた。



私の作った仮面は、社会生活や仕事上ではとても役に立ったと思う。

私の電話対応を近くで聞いていた同僚や上司から「恐ろしく感じがいい」と言われたことがあるし、お客さんから「感じのいい方ですね」と面と向かって言われたこともある。


私にはすごく簡単なことだった。


どういう声のトーンで、どんな言葉遣いで話したら感じがよく聞こえるか。
感じのいい笑顔、反応はどんなふるまいか。全部やり方を知っていてその通りやっているだけだった。


なまじ役に立っているから、厄介だった。


態度を褒めていただくたびに「ありがとう」と言うのと同時に、「本当は違うのになー、ごめんね」と思っていた。


いつか嘘がついていることがバレてしまう。
本当はなんの血も通っていないことがバレてしまう。
本当は無能だということがバレてしまう。

「罪悪感」と「取り繕っていることがいつかバレる」気持ちが、いつもセットで存在していた。


それらを続けるうちに、自分を見失った。

からっぽで、なんにもなかった。

自分の意志などどこにもないように感じられ、どうして生きているのかもよく分からなかった。


毎日、何かしら嘘をついて生きていることに、耐えられなかった。

耐えられなかったけど、耐えるしかなかった。
生きていくには、そうするしかなかった。


罪悪感だけが日々蓄積されて、腐っていった。


本当はこんな人間じゃないのに。
褒めてもらえるような人間じゃないのに。

本当は何にもできないのに。
本当は嘘つきなのに。

って、ずっと思っていた。

苦しかった。


今思うと、別に全部が全部嘘をついていたわけではないと思うし、その場その瞬間では本当にそう思えていたかもしれない。それに、場面によっては本音と建前を使い分けることも大切なことだ。

それなのになぜ噓つきだと思っていたのかというと、「誠実でいなければならない」とか「嘘をついてはいけない」とか、「~しなければならない」と思いすぎてしまっていたからだ。

これらの考えには1ミリの妥協も例外も許されていなくて、だからそこから外れる度ばかみたいに自分の首をしめていた。


当時の私にとって、「誠実」で「優しく」いることは義務でしかなかった。だから、これらのキーワードで褒められてもあまり嬉しくなかった。義務でつけている仮面を褒められても嬉しくないのだ。ただ虚無感と罪悪感を感じるだけ。


褒められることなんて何も持っていないと感じていたから、周りからの悪い評価は真摯に受け止めようとするのに、良い評価は「そんなはずない」って突き返してしまった。

とてもじゃないけど信じられなかった。


周りの人たちを信頼していなかったわけではない。素敵な人たちがたくさんいたし、何度も助けてもらったり頼ったりしていた。

ただ、自分のことに関してはどうにも受け止めることができないのだった。



そんなわけで、自分のことが嫌いだった。

「私は評価されるに値しない、周りを騙している嘘つき」だと喉元に突きつけていたのは自分自身なんだ、と気がついたのは本当につい最近のことである。


自分で書いていてすごく苦しい。

われながら、こんな状態からどうやって抜け出したのだろうか。


それは次回から。


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