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言葉は全然完璧じゃない

僕らは普段、言葉を使うことで自由にコミュニケーションができると思っている。でも言葉自体はとても不確かな存在で、自由に伝えたいことを伝えたいように伝えることが実は結構難しい。

例えば「悲しい」という単語。悲しいシチュエーションは星の数ほどあるのに、その全てを「悲しい」とたった一言で表せてしまう。

それはつまり朝目覚めたら愛犬のペムが亡くなっていた時も、ポケモンのガチャガチャでルージュラが3連続で出た時も、好きだった女の子が友達と付き合い始めた時も、その全てが「悲しい」で表現されてしまうということだ。でもペムが死んだ時とリュックがルージュラまみれになった時では、心の中のあり方は天と地ほども違う。

そう、言葉は全然完璧じゃない。

言葉で伝えようとした瞬間に僕らは驚くほど多くの情報を無意識のうちに切り捨てている。そしてだからこそ本当に悲しいとき、そして本当に嬉しいときには言葉が出てこない。言葉にするために切り捨てることができないほど大きく、そして強い感情を抱いた時にはもう黙るしか手段がない。

これほどまでに不完全な言葉を使ってコミュニケーションするのだから、当然だけれど日々僕らは数えきれないほどのエラーに直面する。

自分にそんな気がないままに相手を傷つけてしまったり、怒らせてしまったり、まったく違う意味で捉えられたり、思えば言葉を使うことで僕らは割とひどい目にあっている。それでもやっぱり言葉を使う。だってそれしかないのだから。

そしてこの言葉の不完全さは厄介なことに意識するのが難しい。生まれた瞬間から言葉に触れて生きている僕らにとって、それはもう水や空気のように当たり前の存在で、そんなものにいちいち疑いの眼差しを持ち始めたらかなりしんどい。

ただ、幸いなことにも人はコミュニケーションを言葉だけでしているわけではない。表情や身振り手振り、そしてなんとなく感じる雰囲気、そういうものを総合して初めてコミュニケーションが成り立っている。言葉が切り捨てた情報を言葉以外が拾ってくれるおかげで、大きなエラーを回避できている。

でもSNSを通したテキストベースのコミュニケーションでは表情や身振りは機能してくれない。顔文字や絵文字、そしてLineのスタンプはそうした非言語のコミュニケーションを補う役割を果たしてくれているけれど、対面での会話と比べれば情報量が少ない。

言葉が切り捨てた情報はテキストのコミュニケーションにおいては誰にも顧みられることなくただ落ちていく。だからこそSNSは時に非常に暴力的な存在になり得てしまう。

たとえそれが書いた本人とって軽い気持ち、もしくは冗談のつもりでも、言葉だけではそれは伝わらない。言葉の生の意味だけがまっすぐに相手に届く。そしてそれは時に相手を殺してしまうほど強く響くことだってある。

僕らは普段そんなことを意識すらしないけれど、基本的に言葉を過信しすぎている。インターネットが登場するまではそれでもそんなに問題がなかったのかもしれない。でも今は違う。人間同士のコミュニケーションがここまで言葉だけで完結した時代は人類の歴史の中で未だかつてない。

それだけに言葉の不完全さに今までよりもずっと自覚的である必要がある。僕らが言葉を"送信"する時、無意識に剥き身のナイフを相手に投げつけている可能性があるということを、言葉がもつその怖さと不完全さをどこかで心に留めておかないと悲劇が起きてしまう。

悲しいと呟いたとき、嬉しいと呟いたとき、そのときの自分の心の中のあり方に少しだけ意識を向けてみると言葉がいかに多くの情報を落としているかに気がつくだろう。それこそ本が一冊書けてしまうぐらいに、映画が一本撮れてしまうぐらいに、言葉には背景が隠れている。

残念なことに言葉を使う以上、その背景を全て伝えきるというのは不可能かもしれない。でもだからこそ言葉が抱えるこのジレンマに自覚的である必要があるのだと思う。

言葉だけで誰かが死んでしまうような世界はとても悲しい世界だし、できればそんな世界だけは来て欲しくはない。そんなことを思ってこれを書いたけれど、やっぱり言葉を使っているから完璧に言いたいことを言えた気はしない。

ままならないなぁ。

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