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卒業式や入学式が無くなることについて思うこと

僕は2011年3月に高校を卒業した。卒業間際は高校生活に思いを馳せたり、新しく始まる大学生活にわくわくしたり、いろんな感情が入り混じってはいたけれど、それは概ねとてもポジティブで色鮮やかなものだったと思う。そう、3月11日までは。

その日を境に世の中は一変し、心の中のあの鮮やかな感情達は徐々に色あせて、そして最後にはみな同じグレーになった。卒業式はあったけれど、それは卒業する3年生とその両親だけが参加する寂しいものだったし、大学の入学式はなくなり、さらに授業開始が1ヶ月伸びた。

後輩の女の子から第一ボタンを...といったロマンチックな妄想も、サークルの新歓の馬鹿騒ぎも、そして新しく始まる授業への期待も、その全てが突然バッサリと見えなくなった。テレビで流され続ける津波の映像や、増え続ける死者や行方不明者の数にただ呆然として、これが本当に起きていることなのかとても理解が追いつかなかった。

自分の中で現実感は欠いていたけれど、テレビの画面を見つめていると自然と涙が流れた。そして自分でもそれがなぜかはわからなかった。おそらく精神的に参っていたのだと思う。でもそれは僕だけの話ではなくて、世の中がそうだった。今振り返ってもあれはとても辛い日々だったと思う。

僕らは今、もちろん原因や影響範囲は全く異なるけれど、あの時と似たような状況にいる。そしてそれは特に、新高校生や新大学生がとても近い体験をしているんじゃないかと思う。痛いほど気持ちが分かるし、だからこれを書こうと思った。同じ体験を先にしている者として、何かポジティブなメッセージを伝えたくて。

僕が個人的に思うことはまず、この状況に完璧に対応するなんて無理だということ。だって誰も経験したことがないんだし、そもそも大人達だって右往左往している。誰もが少なからず自分のことで精一杯で、僕らの不満や不安は基本的に彼らの元まで届かない。だから自分が完璧な対応することも、完璧な対応を求めることもこれは諦めるしかない。

でもそれでは自分たちの現状があまりにも辛い。だって楽しみにしていたものが全部上から取り上げられてしまうのだから。そうした悲しみや残念さは包み隠さなくて良いと思う。悲しい時は悲しい、そうやって自分の気持ちを素直に見つめてみてほしい。

そうすると諦めなくてはならないことと、自分の気持ちに大きな乖離があることに気がつくと思う。これをどう発散させるのかを考えることに大きなエネルギーを使おう。僕はあの当時、自分の中の悲しみをどこにもぶつけられない不満として持ち続けていて、それで大きなエネルギーを消費してしまった。結果として僕は卒業から大学開始までの空白期間を悶々としながら、精神的に全くヘルシーではない状態で過ごしてしまった。

今振り返るとあの状態がもっとも不幸せだったと思う。堂々と期待に胸を膨らませて然るべき新入生があんな状態にあって良いことなんて絶対にない。でも状況が状況だから誰かが手を差し伸べてくれたりはしない。だからとても難しいことだと思うけれど、自分でその問題に向き合うしかない。

さて、ではどうやって諦めと気持ちの乖離を発散させるのか。もちろんこれに正解なんてないし、できる人は自分で考えて実践すると良いと思う。個人的なオススメは、自分の未来で楽しみなことを増やすことだ。

僕らは基本的に未来の楽しみのために生きている。それは冷蔵庫に入っているプリンをおやつに食べようと思っていることもそうだし、社会で活躍することもそうだし、結婚して幸せな家庭を作ることだってそうだ。時間軸の違いはあれど、未来への期待があるから僕らは眠るときに明日の朝また目覚めたいと思う。

だから少しでも明日の朝目覚めたいと思えるような、未来の楽しみなことを増やしておくと良い。そしてそれは個人的であればあるほど良いと思う。この社会を良いものに導きたいとかそういう誰もが賞賛するようなものである必要は全くない。半年後に発売されるゲームでも良いし、授業が始まったら取りたい科目とか、理想の彼女や彼氏でもなんでも構わない。

とにかく将来の楽しみなことを書き連ねつづけて、それで今の悲しい気持ちを発散させるんだと意気込もう。それから日々をその楽しみなことへの準備期間として過ごすと良い。例えば半年後に発売されるゲームの前のタイトルがあるんだったらそれをやりこむとか、大学で取りたい科目があるのであればそれに関連する本を読むとか、理想の彼女や彼氏に出会った時にアプローチできるように自己研鑽するとか、日々の暮らしをその楽しみな未来へのステップにしてしまう。

もちろんこれは僕があの時できなかったことだ。そしてやればよかったととても後悔していることでもある。ベットの上で布団に包まりながら死んだような目をして、新しく買ってもらったスマホでゲームをして、アニメを見て、そして寝る。僕があの時やっていたことだ。突然見えなくなった未来に生きる気力がゼロになっていたのだと思う。将来が見えなくて何をしても無駄なような気持ちだった。

でも今だからこそ言えるけれど、僕らが想像していた楽しい未来は必ずくる。大学の授業が開始されれば多少自粛気味ではあったもののサークルの新歓はあったし、楽しみにしていた大学の授業では新しい友達ができた。社会を覆っていた暗いもやは少しづつ晴れて、景気は回復し僕が就職する頃には就活は完全な売り手市場になっていた。もちろんコロナ後に同じ未来が来るかは分からない。それでもなんらかの形で状況は好転する。

だから何度でも言うけれど決して未来への期待を無くさないで欲しい。

ただ未来への期待でてんこもりにしても多分気持ちの浮き沈みはある。だってこれがいつ終わるかなんて誰にもわからないから。自分がやっていることが果たして意味があるのか分からなくなることもあるだろう。

そういう時は無理せずにお布団に入って何も考えずに猫の動画でも眺めていると良い。(個人的には岩合光昭さんの「世界猫歩き」(NHK)がとてもオススメ。) だってキツイものはキツイ。できるなら友人と電話で話みるとかもよいと思う。何を言いたいかと言えば無理をしない、ということ。

無理をせずにエネルギーを貯めて、そして少し元気になったらそれを使う。そういうサイクルをのんびり回すと良いと思う。

とにかく無理をせずに、そして不満や失望に支配されないように。
ああ、あと卒業・入学、本当におめでとう。

もし僕があの時に戻って自分に声をかけるならこんなメッセージを伝えたい。

最後に(蛇足)

大学では少し文化人類学をかじった。その中で学んだこととして文化の中で重要な役割を果たす通過儀礼がある。これは要するに江戸時代の武士で言えば元服であり、今で言えば入学式や卒業式、入社式なんかの式典のことである。

現代では式典系はあんまり重視されないけれど、この通過儀礼は全世界の様々な文化に共通して見られる存在であり、人類にとって普遍的な存在だとも言える。要するに新しい役割や社会に所属する場合に、それまでの役割や社会からの切り替わりのポイントを明確にしたいという人間の欲求なんじゃないかと思う。

社会や役割は目に見えないから、そういうポイントをあえて作ることでその後に馴染み易いようにしているのかもしれない。そういう意味でいうと卒業式や入学式がなくなることは結構大ごとで、心理的に何かしらの影響がある気がしている。

僕なんかは入学式をせずに大学に入ったからどうも自分がその大学に所属している気持ちになれなくて、結果として仮面浪人という形で翌年に違う大学に入り直した。そこでちゃんと入学式を迎えられた時にはなんだかとてもホッとした。

だから、高校や大学には簡易でるも良いからコロナ後にせめて入学式ぐらいは行なって欲しいと思う。

もしくは学生が自分たちでセルフ入学式をしても良いかもしれない。

そんなゆるめの提案でした。

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