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「個性」「自由」という名の呪縛

夫(40代真ん中)は趣味で俳句を作る。
某「才能アリ」番組を見て、ごく軽いノリで始めたのだが、学ぶうちに面白くなっていったらしい。
その夫は、馳浩石川県知事の詠む俳句が「苦手」だ。夫曰く「基本がなっていない」らしい。俳句には「こう詠めばよくなる」という「型」のようなものがあるのだが、それがまったくできていない、と。
確かに知事の句は、素人の私から見ても「これはちょっと……」という句が多い。夫より長く詠んでいるはずだし、何より昔は国語の教師だった方だ。本を一冊読んで学べばぐっとよくなるのに、と不思議に思っていたのだが、ふと気づいた。
もしや知事は、教師であったがゆえに「自由な発想で」「自分の考えで」詠む、ということに囚われているのではないだろうか?

■演劇が大好き、だった

ここからは私の経験談だ。
私は中学に入ったころに宝塚にのめりこみ、そのままミュージカルや演劇全般が大好きになった。地方在住で、両親は全く興味がなかったので、観劇の機会はとても限られていたが、三階席のてっぺんに近いような席でも感動に震えながら観たし、テレビで放映があれば録画して、好きな演目は繰り返し見た。30年経っても歌える曲、言える長台詞がある。
俳優さんの真似をしているうちに、自分でも演劇をやってみたい、と思うようになった。中学には演劇部がなかったが、文化祭で3年生がクラス対抗で演劇コンクールを行うのが慣例になっていた。ここぞとばかりに脚本と演出を引き受け、担任の英語教師と上演する脚本を相談した。
持ち時間は45分なので、ほとんどのクラスは既成の中学生・高校生向けの脚本を上演する。が、担任(定年間際の戦中世代)は、なんとシェイクスピア、それも「ベニスの商人」をやろうと言い出した。
今考えると「中学生相手に無茶苦茶いうなよ」と思うが、私は「やりましょう!」と即答した。そして「ベニスの商人・45分短縮バージョン」を書き上げた。短縮した方法は省くが、担任のみならず学校中の教師から絶賛され、ぶっちぎりの点数で優勝をかっさらった。
この成功体験に気をよくした私は、高校で演劇部に入部した。が、そこで私を待っていたのは「高校生らしくない」という言葉の洗礼だった。

■「高校生らしくない」

演劇部にも、甲子園のように夏休みに大会がある。文化祭や、複数校での発表会もあったけれど、夏の大会が一番重要な上演だった。そしてこの大会が、私を一番苦しめることになった。
演劇部は上下関係が厳しい学校が多く、母校のような弱小校でも1年生のうちは脚本・演出といった大事な部分にはほとんど関与できなかった。そして母校は「夏の大会は、生徒による創作脚本を上演する」という慣例があった。
初めての夏の大会、私は脇役で出演することになり、先輩の書いた脚本を渡された。先輩には申し訳ないけれど、お世辞にも素晴らしいとはいいがたい、とてもありきたりな「自然破壊への批判」が主題の脚本を読んで「頭の切れる人なのに、どうしてこんな脚本にしたんだろう」と不思議に思っていた。
2年生になり、私が脚本を書くことになった、テーマ選びに取り掛かった私に立ちはだかったのは、顧問に宣告された「縛り」だった。

・青春もの、反戦ものはよほど面白くない限り入賞しないので、覚悟して書くこと。
社会風刺不可。正面から批判すること。
古典演劇、商業演劇は、アレンジも含め不可。

「青春もの、反戦もの」は、既成の脚本を読み、また1年生の時の大会で観て「書くのが難しいんだな」と理解できていたが、残りの2つは全く理解できなかった。どうしてですか、と叫ぶ私に、顧問は苦虫をかみつぶしたような顔で告げた。
「権利の関係と、持ち時間。あと審査員が高校生らしくないって怒る」
たしかに設営も含め60分の持ち時間で、シェイクスピアをやるのは至難の業だし、高校生向けに全面開放していたキャラメルボックス以外の商業演劇は、権利関係がとても難しいということは理解できた。しかし、著作権が切れている戦前の翻訳もあるのに「アレンジも含め全面不可」は理解不能だったし、「風刺をするな、正面から批判しろ」はさらに理解不能だった。
顧問は言った。
「高校生らしい自由な発想、創造性。それが大会の理念」
顧問自身「あほらしい」と思ってはいるようだった。が、顧問は「指導する」立場の人間であるから、「審査員に反抗してやれ」とは言えない、ということを「察してくれ」と遠回しに何度も頼まれた。
私は顧問を尊敬していたから、察した上で自分の心を折った。そして「審査員が怒らない」脚本を書いた。「没個性を強要する社会への批判」をテーマに選んだのが、せめてもの反抗だったが、自分がどんな台詞を書いたのかすら思い出せない。そのくらいつまらない脚本しか書けなかった。
その後私は、新入生歓迎会でやりたい放題の寸劇を書き、退屈していた新入生から爆笑につぐ爆笑と大喝采を獲得し、廃部寸前から大量の1年生が入部、を花道に演劇部を引退するのだが、詳細は省く。

■演劇だけではなかった

大学に入った私は、演劇から離れた。宝塚のご贔屓の退団も重なり、ほとんど観劇もしなくなった。
合唱をやっていた男子学生と知り合い、何気なく演劇部での経験を話した。彼は「合唱も同じだよ」と言った。クラシックは駄目で「うたごえ活動」のようなものばかりだと。二人で延々「高校生らしいって何なんだ」と愚痴った。(余談だが、その男子学生は現在の夫である)
そして学年が上がり、美術史を専攻に選んだ私は、またひとつの疑問に行き当たった。特に絵画においては「こう描けば美しく見える」という構図や技法がある程度確立しているのに、美術の授業で「この構図で描いてみましょう、この技法を使ってみましょう」と教えられたことは一度もなかったのだ。中学までしか美術の授業を受けていないが「心のままに、のびのびと、自由に」と言われるばかりだった、という記憶しかない。美大出身の人は構図や技法を習った、と言っていたが「学校ではなく画塾」「自分で真似をして描いてみた」という人ばかりだった。
よくよく考えてみれば、物語や随筆、詩にも技法はあるのに、授業で細かく教えられた記憶はない。せいぜいが起承転結程度で「あなたらしい文章で、のびのびと」と、教科書に書いてあった気がするが、実にあほらしい
私が物語や、随筆めいた文章を少し書けるのは、読書が大好きなオタクで、好きな文章を真似て物語を書き始めたからであり「あなたらしい文章で、のびのびと」書いた結果ではない。真似て書く、という段階を経ていなければ、この文章も「私の夫は、馳知事の俳句が苦手です。どうしてかというと、基本ができていないからだそうです」という小学生の作文レベルで止まっていただろう。

■「個性、自由」≠「技法、型」ではない

現在の私は「大好きだった演劇」より「勉強した美術史」で語ったほうが得意、という悲しい人間なので、美術史でたとえてみる。
印象派の好きな人は多いが「官展」の枠にとらわれず絵を描いた、とされる彼らの絵にも「技法」はある。日本の浮世絵の構図を真似たことは有名だし、様々な技法を試し、学び続けた結果が歴史に残る絵の数々なのである。棟方志功やゴッホ、岡本太郎にだって「技法」はあるのだ。「絵具を好きにぶつけている」という前衛作家であっても「絵具のぶつけ方」がすでに技法なのだと、私は考える。
日本の学校教育は、なぜだかこの「技法」を教えることを嫌う人が多い。「個性」が大事、「自由」が大事、と声高に叫ぶのだが、思ったように描けない、書けない、創れない、といった状態で、自分の作品を愛せるだろうか?そのくせ「審査」「採点」はしっかりあって、酷評されるのである。絵も、文章も、書も、音楽も、嫌いになってしまうのではないだろうか。
昨今声高に叫ばれている「生徒自らに考えさせる教育」にも、私は危機感を覚えている。二桁で繰り上がりのある足し算が危うい人間(私のことだ)に、抽象的な数学の命題を「自分から考えて解く」ことができるだろうか?
「技法、技術、公式」を教え、その上で「個性」を出させるのではなく「個性と自由のみで創らなくてはいけない、考えなくてはいけない、技法や公式に囚われる生徒はダメ」という教育を行うのは、個性でも自由でもない。「呪縛」だ。

■おわりに

「馳知事の俳句」に戻って、この文章を終えたい。
自由律俳句で有名な河東碧梧桐は、正岡子規の弟子である。尾崎放哉や種田山頭火にも師匠格の俳人がいる。「何も考えず、好き勝手詠んでいたらできた」わけではない。
まずは「型」を学ばれると良い、と、門外漢ながら申し上げたい。長年にわたって「創り続ける根気」をお持ちであることは「才能アリ」なのだから。




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