ORDER
彼はいつも私を殴る。腹、腕、顔、人の目に付く部位であろうとお構いなしに、アザができるまで。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
そうして一頻り暴力をふるった後、二人で眠る時には泣きながら私を抱きしめる。それが性的なものに変化することはなく、おそらく今後もない。しかし私は彼の激情を知っている。
私はそんな彼を愛している。
「あの、三枝言葉先生ですか……?」
編集部との打ち合わせの帰り、駅のホームで高校生くらいの少女に声をかけられた。時間的に学校帰りだろう。
「……はい、そうですよ」
にこりと笑顔を作ってみせると、少女はやっぱり!と顔を輝かせた。
「サイン、頂いてもいいですか?私ファンなんです」
彼女はスクールバッグから、油性ペンと私の著作を取り出した。数年前に出した短編集である。持ち歩いているところを見ると、ファンというのは本当だろう。
遊び紙の所にサインをして返すと、彼女は本を抱きしめるようにして「ありがとうございます!」と言った。しかしすぐに表情を曇らせ、
「あの、お顔のお怪我は大丈夫ですか……?」
とこちらを伺ってきた。私は右頬と左目を完全に覆うように、大きなガーゼを当てていた。無論傷を隠すためである。ファンであるはずの彼女が、声をかける時少々自信なさげだったのはそのせいだろう。
私が黙っていると、彼女は勝手に「踏み込んだこと聞いてしまってすみません!」と言い残し、まもなく滑りこんできた反対側の電車に乗り込んでいった。
この世間は目立ったものに厳しい。家と会社を往復するだけで、怪我をした顔に刺さる視線が痛くて仕方がない。電車という閉鎖空間に身を置くと、それがよくわかる。あの、まだうら若き少女でさえも、そんな「世間」の側に立っていた。腫れ物に触れるように、私を見て逃げていった。
好奇、あるいは畏怖の瞳から意識を逸らそうと、スマートフォンを取り出しメールをチェックすることにした。
先程後にした編集部から一通、そして……山中……高校時代のクラスメイトから一通?
『三枝、久しぶり!もうすぐ同窓会なんだけど、お前も来いよ。お前成人式も出てこなかっただろ?女子たち悲しんでたぞ!あと高木がデキ婚してさ』
閉じた。吐きそうだ。
気持ちを仕事に切り替えようと、編集部からのメールを開く。
『ご相談させていただいたグラビア撮影の件ですが、一ヶ月後に延期させていただきましたので、くれぐれも顔に怪我だけはなされませんよう、よろしくお願いいたします』
私はため息をついて立ち上がった。もうすぐ最寄駅だ。全てから解放される愛しい我が家と、愛すべき恋人が待っている。
「お帰りなさい!」
笑顔で私を迎える棗は、仕事をしていない。いわゆる世間で言うヒモ男と言うやつだが、家事全般をやってくれているため、執筆で忙しい私にとっては便利な恋人だ。籍を入れていないだけで、本当なら専業主夫を名乗れるほどの料理の腕前である。
いつもであれば「ただいま」と頭の一つでも撫でてやるところだが、生憎今日の私は機嫌が悪かった。そのまま無言で部屋に上がると、案の定彼は不安そうにあとをウロウロついてきた。私より十センチほど高い身長で、所在なさげな迷子のような振る舞いは不似合いで、みっともなくて、可愛らしい。
「どうしたの、言葉さん、嫌なことでもあったの……」
「別に。あ、アイス食べたい、冷蔵庫から取ってきて」
棗は何かいいたそうな顔でキッチンまで行って、私の言うとおり棒アイスを手にリビングへ戻ってきた。私が無言でアイスを食べていると、彼はソファーの隣に座ったままソワソワし続け、やがて何かを思いついたと言うように笑って、こちらに向き直った。
「……何?」
笑顔が煩くて、思わず声を掛ける。すると彼は意を決したように、そしてこれでどうだと言わんばかりに「俺は言葉さんのこと大好きだよ!」と告げた。
「へえ。私は別にお前のこと好きじゃないけど」
アイスを食べ終わり、残ったゴミを「捨てといて」と押し付ける。予想通り、棗は今にも泣きそうな顔になった。私は心の中でほくそ笑む。始まる。毎日のストレス発散の時間だ。
「どうした?激昂しろよ。悲しいだろ?感情の赴くままに私を殴れ」
棗の泣きそうな顔が、途端に泣き顔に変わる。この瞬間がいつも、堪らない。
「ねえ言葉さん、こう言うのは、俺もう」
「誰がお前を食わせてやってると思ってるんだ?このくらいの注文聞けよ、社会のゴミが」
棗の手が震え始める。私はそれを手に取り、握り拳をつくってやる。私よりもひとまわり大きな手の甲に、水滴が落ちた。しゃくり上げるように泣く棗は、この世のものとは思えぬほどかわいそうで可愛い。ここまできたら後一押しだ。私は棗の髪を掴んで、耳元で叫んだ。
「いいから殴れッ!血が出るまでやめんなよ!」
彼は泣きながら、私の注文を聞いた。
まともな二人でいるための注文が多すぎる。
殴ってはダメ、傷をつけてはダメ。「狂い方」にすら規範がある。殴られている方が被害者で、力が強い方が加害者で。そうでなければならない。世間が助けてくれる狂人は、「まともな狂い方」をしている人間だけだ。
洗面所で新しくできた顔の傷を見つめながら、私は笑っていた。これで撮影は延期だ。雑誌や本の帯に顔を載せて「新進気鋭のイケメン小説家」として売り出した方が、本が売れるらしい。馬鹿馬鹿しい。そんなことのために、この顔に生まれたわけじゃない。
「普通」でいるための数多くの注文をこなさなければ、私たちは呼吸すらままならない。
結婚をするのは男女で。性交渉は若いうちに済ませた方が良くて、だけど若すぎてもダメで。成人式には出た方が良くて。高校時代の友人は大切にした方が良くて。就職はした方が良くて。暴力をふるうことを愛とは呼んではいけなくて。子供はいた方が良くて。顔は綺麗な方が良くて。笑顔は上手な方が良くて。
「言葉さん……」
泣き疲れて、殴り疲れて眠ってしまった棗が起き出してきた。私に出会うまでは、ただ馬鹿で可愛いだけの男だったのに。あの頃のようにはもう笑えなくなった。その精神をめちゃくちゃにしたのは紛れもない私。
「なあ棗ぇ。これで私がどこかしかるべきところに逃げ込めば、お前の人生はめちゃくちゃだぞ」
自分で言葉にすると、ますます笑いがこみ上げてきた。おそらくヒビが入っている肋骨が軋む。その痛みすらも快感だった。棗がつけた傷。私自身に刻まれた、紛れもない彼の犯行記録!彼は涙で汚くなった顔で「お願いします」「やめてください」と繰り返していた。
「まあお前は私の命令をよく聞いてくれるから、そのくらいの注文は聞いてやるよ」
どちらにせよ彼の生殺与奪は私のものだ。ままならないこの世界で、唯一全て思い通りになる存在。痛みやアザの代償としては有り余る。
彼はいつも私を殴る。腹、腕、顔、人の目に付く部位であろうとお構いなしに、アザができるまで。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
そうして一頻り暴力をふるった後、二人で眠る時には泣きながら私を抱きしめる。それが性的なものに変化することはなく、おそらく今後もない。しかし私は彼の激情を知っている。
私はそんな彼を愛している。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?