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初めて「死ねる」と思った日

いきなりワードが物騒で申し訳ない。物騒だけど気持ちは穏やかな話。死ぬのが怖い自分が少しだけ楽になった話だ。

私は常々、死にたくないなと思って生きている。正確には「今死にたい?」「NO」の自問自答の繰り返し。嫌がらせをされたりして、もう嫌だってなると、いつもこの質問をする。死にたくないなら生きるしかない、と無理やり乗り越えている。この癖は後にさらなる問題を作ってしまうのだけど、それはまた別の日に書こうと思う。


ある日の深夜3時頃、眠れなくて、なんとなくウォークマンで音楽を聞いていた。大きめな音が好きだけれど、その日はごく小さめに。その曲は初めてではなく、過去2回ほど聞いた知ってる曲だ。冬がテーマの静かな曲。

聞いている時私は、このまま死んだらこの歌の場所を探しにいこう みたいな気持ちになっていた。雪をかぶった枝、誰もいない山、生身ではいけない場所。鬼束ちひろさんの「琥珀の雪」という曲だった。

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普段、死にたくないと思うときは大きく分けて2つある。

1つは、先述の「嫌なことがあったとき」。なんであんなことされたかわからん、悲しい、逃避したい、消えたい、とは思っても「死ぬか」と言われると急に死ねなくなる。急に勿体なくなる。

1つは、「近い未来に楽しみが待っているとき」。映画とか、舞台とか、コミックス発売とか。あと何日したらあれがあるから生きなきゃ、と言い聞かせる。これをなくさないように頑張って作り続けている。

要は、嫌なことがあっても良いことがあっても死にたくないのだ。最悪な気分だと、このまま終わりたくないと思うし、幸せの渦にいてもあぁ生きててよかった、また次も楽しみにしてよう、と思うから、どちらにせよ死ねない。死ねるタイミングがなかった。


その曲を聞いた夜。他の音はなにもなかった夜。おそらくあれが、過去の人生で一番 "真ん中の気分だったのだ。絶望に浸らず、有頂天にならず、寂しくなく賑やかでなく。その日だって、未来に楽しみは待っていたのに、このまま死ねたらきっと、その楽しみを失ったことにも気づかないだろうと思えたのだ。

昔住んでいたアパートの大家さんは、奥さんが「朝ごはんできたよ〜」と声をかけ、返事をもらって、それでも降りてこないから見に行ったら亡くなっていたのだと、そんな話を聞いた。彼にもきっとその後の予定や、行きたい場所はあっただろうが、それでも私はその時「幸せな終わりだな」と思ったことを、最近になって思い出した。

結局その日は寝れなかったのだけれど、ひどく安心した。


余談

鬼束ちひろさんのWikiで『「練炭自殺する人は最初に椎名林檎を聴き、次にCoccoを聴いて、最後に鬼束ちひろの曲を聴いてから死ぬ」という言説』という一文を見た。それを知り『歌うことに対する拒絶感を感じた』とも。

残念ながら先の2人はあまり存じ上げておらず、またこの文を最初に書いた人がどんな気持ちで書いたのかも知らないままだが、少なくとも私は「今なら死んでも悲しくないと思う瞬間が自分にもある」と知れたことはとても大きな収穫だった。その日はあるはずの未練に目が向かなかった。今現在はまた"死にたくない周期"になっているが、自分がいつか本当に死ぬ時はまた、あんなフラットな気持ちになって死にたい。

「貴方の曲で死にたくなった」なんて言われたら、誰しも抵抗を覚えるだろう。けれども「鬼束さんの曲を聞いて終わりにしたい」という声はとてもあたたかに聞こえる。衝動的な自殺は決して推奨したくはないが、怯えるばかりだった死に対して、こんな気持ちなら死ねる、という感情が生まれただけでもすごいことだと思うのだ。だから鬼束さんの歌はすごいと思う。だから貴方の歌を聞いて死ぬという人がいても、貴方はそれを止めなくていいはずだと言いたい。その人の死を背負わなくていいはずだと。きっとその人はもう貴方からかけがえのないものをもらったから。

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