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自由の女神の足元を見たことはあるか


自由は相対的なものであると思う。

例えば、「自由な社風」「自由な働き方」って
「不自由な社風」、「不自由な働き方」を経験したり、知っているから認識できるものであると思うのだ。

相対的なものである以上、何を基準とするかで
「自由」の意味合いは変わるので、
人によって「自由」の解釈が異なることは
言わずもがなだろう。

かく言う私にとっての自由は
「どれだけ選択肢を持っているか」だ。

簡単に言うと、
何かを決めなければいけないとき
A,B,Cという3つの選択肢を持っているより
A,B,C,D,Eという5つの選択肢を持っている方が
自由度は高いと言える。ということだ。

「自由とは何か」についての答えが
はっきりと出たのはたぶん高校生くらいの頃。

(ネガティブな見方をすれば、
アップデートされていないということだが
それ以上にピンとくる答えにまだ出会っていない。)

意識的か、無意識的かはおいておいて、
私は昔から「自由」に憧れを抱いている。

例えば、
上京を決めたのも今後の選択肢の量でいえば東京>熊本だと思ったからだし。
バイトやインターンも、就活やお金のためというよりは、様々な経験をするために行っていたと言っても過言ではない。

そして就活の時に、
「副業OK(容認・推奨)の会社」
という軸が最優先事項の1つだったことも
「自由でいること」への憧れに関係している。

就活時点では、何の副業をするかなんて
ビジョンは全く持っていなかったし、入社1年目の内はできないだろうと思っていた。

しかし入社直前にひょんなことから
モデルやタレント、インフルエンサーとしての
仕事をいただけるようになり、
入社と同時に副業生活がスタートした。

もうそろそろ入社して1年が経つ。
同時に、副業生活も1年だ。

振り返ってみるとこの2足の草鞋生活は、
私をとても自由にしてくれた。

副業が私を自由にする理由は大きく3つある。

1つ目の理由は、
「仕事の種類」選択肢が複数あること。

私の場合は、
本業ではweb広告のマーケティング関連、
副業ではモデル、タレント、インフルエンサー
として様々なお仕事をいただいている。

「毎日違うことをしたい!」
と小学生のときから言っていたので、
元来かなりの飽き性。
しかも一度手を付けたものは極めたがり。
という少し厄介な性格をしている。

「毎日違う仕事」こそ実現できていないが
(実現する必要もあまりないと思うが)
本業だけでは経験できなかったであろうお仕事をさせていただいている。かなり刺激的だ。

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数行だけ、少し脱線。

「副業では結局何をやっているの?」
とよく聞かれる。
正直、私自身もわからない。

「私は○○をやっています!」
と一言で言えることは大切なことだ。
なぜ大切かというと理由はただ1つ。
「他人から見たときに分かりやすいから」だ。
マーケティング観点でも非常に重要。
売りやすいし、買いやすい。

では、
「私は○○をやっています!」と
一言で言えることは、私を自由にするか。

と考えると、果たしてそうではなかった。

「私は○○をやっています!」
を明確にすればするほど、私が定義している自由とはかけ離れていく。

難しい問題だ。

だけどそろそろ、この問題については
キチンと向き合わなければいけない気がして。

最近の悩みでした。

↓本題に戻る↓
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副業が私を自由にする理由の2つ目は
「使えるお金」の選択肢が増えること。

お金は、自由をもたらしてくれる。

簡単に言うと、
手元に500円しかなければ電車一択だが、
1万円持っていたらタクシーが使える。

つまりお金は、
選択肢を増やしてくれる、
という意味で自由をもたらしてくれるのだ。

収入口が多いほど収入も多くなるので、この自由は副業によりもたらされているものだといえる。

お金は私にとって立派なモチベーションだし、
責任の醸成という意味においても重要だと思っている。

副業が私を自由にする理由の3つ目は
「人との出会い」だ。

3つの中で、
1番重要なのはコレだったりする。

もちろん、「人との出会い」は副業からのみ
得られることではないのだが、最初から「対等なビジネスパートナー」であるという点においては、飲み会で出会う友達と違う点だ。

私のように個人で仕事を行っている以上、何かあったときの責任は100%私にふりかかる。

「私」に依頼してくれているからには、期待していただいている以上のものを返したいし、それができるかどうかの責任も100%私次第だ。

ここについては、一社員として働いているよりも個人で請け負っている方が感覚はダイレクトな気がする。

以前一緒にお仕事をした方をきっかけに
人を紹介していただけたり、
新しいお仕事に繋がったり。
紹介していただいた以上、「私」としての責任が発生するし、やはり友達との関係とはまた違った「信頼」が存在していると思う。

そんな対等な状態で出会う魅力的な人々と、
出会うたびに新たに触れる価値観は、
間違いなく私の自由を拡張している。

これら3つの理由から、
私は副業のおかげで自由を得ていると感じる。

しかし重要なのは、
そして、このnoteで言いたかったことは、
ここから。

先ほど3つの理由とともに挙げた「自由」は
ただ与えられたものではなく、
アクションの結果に得たものである
という点だ。

「自由」は日本語だと「自由」でしかないが、
英訳すると2つの「自由」が現れる。

「Freedom」と「Liberty」

誤解を恐れずに簡単に言うと
Freedomは受動的な自由。
当たり前にある本能的な自由のイメージだ。

Libertyは能動的な自由。
不自由だった状態から勝ち取った自由で、
社会的な意味でつかわれるイメージだ。

言葉遊びをしたいわけではなく、

今当たり前に享受できている「Freedom」は
誰かの努力による「Liberty」である可能性が高い。

皮肉にも「タダほど怖いものはない」という言葉がある。
つまり「FreeのFreedom」だって怖がるべきであり、当たり前に受け取ってはいけないものだ。

このことを忘れてしまうと、
「不自由」であることに不満を抱いた後、ではどうすれば「自由」を得られるか、のアクション方法に思考が飛ばなくなってしまう。

ところで、Libertyといえば「自由の女神」
が思い浮かぶ。(強引)

「自由の女神」を英訳すると、
「State of Liberty」

改めて「自由の女神」とは何かというと

1886年、アメリカ合衆国独立100周年を記念してフランスから贈られた銅像だ。

私は学生の時にN,Yへ旅行したことがあって、
その時に自由の女神も見に行った。
フェリーからだったので、細部までは見えなかったのだが右足のかかとが一歩引いているのが見えた。

肉眼で見るまでは、自由の女神は直立不動だと思っていたので、ホテルに帰ってから足元がどうなっているのかを調べた。

知っている方もいるかもしれないが、
実は自由の女神の右足は鎖でつながれている。

一方の左足は鎖を引きちぎり、
さらには一歩踏み出した状態だ。

このことを知った瞬間、
自由の女神の中で最も自由を表現しているのは、右手で掲げる自由のたいまつでも、左手に抱える独立宣言書でもなく、足元だと思った。

”現状”という鎖を引きちぎり、
一歩踏み出すことで、自由を勝ち取る。

いま自由そうに生きている人も、
足元を見れば、重い鎖を引きちぎるために相当な努力をしてきた人たちだと分かるかもしれない。

生き方においても、働き方においても、
「自由」とはただ与えられる権利などではなく、自らアクションを起こし、勝ち取っていく意思の表れだと思う。

但し、冒頭でも述べている通り、「自由」の定義は人によって異なることは覚えておかなければいけず、もちろんそこに優劣はない。

自由の女神の足元は私にとって、現状に満足し、自己中心的な感覚で、アクションをやめてしまったときのための戒めだ。

今後「不自由だ」と感じることがあれば、
アクションを起こしていかなければいけない。

私の脳、肉体の創作代とさせていただきます。 ありがとうございます。