大江健三郎『水死』

[HMCセミナー 大江健三郎「水死」を読む]に参加するために手に取った。
実際には『大江健三郎全小説4』で読んだのだが、感想があまりに長くなり過ぎ
てしまうので、文庫本『水死』の感想としてアップすることとした。/


【ーーしかし長江さんは、洪水の流れに乗り出すお父さんを、正気の人間として書きたかったのでしよう?
ーーそうです。しかも思い込みは持ち続けていて、今度もそれを実現する必要な段階として川に乗り出した、と書くつもりでした。(略)父親が水底の流れに浮き沈みしつつ、振り返る一生の物語。それが「水死小説」なんです。
ーー(前段略)わたしはね、「晩年の仕事(レイト・ワーク)」でこそ、これまで繰り返されたアンチクライマクスじゃなく、洪水の川に乗り出して警察と軍隊の包囲網の裏をかいた父親が、蹶起を立ちあげるんだと思ってました。(略)
それがお母さんのカセットテープを聞かれて、お父さんは蹶起の仕掛人どころか、なにか起こることが恐くて逃げだした人‥‥‥その上、短艇は沈んで溺れ死んだ人と納得された。そして「水死小説」はもう書かれない。これこそアンチクライマクスじゃないですか!】/


僕は、「蹶起」や「蜂起」には何の興味もない。
「蹶起」からは、三島由紀夫のパフォーマンスを思い起こすだけだし、「蜂起」などよりも、ホウキ(箒)のためのホウキ(法規)をホウキ(放棄)して、この排除型社会を包摂型社会へと変えて行くことの方がよほど興味がある。
ここに描かれている水死体が川の中を漂っているイメージよりも、生身の人間が排除のための入管・難民制度の中で、「剥き出しの生」にまで貶められ、四方八方からこづき回されている光景の方が、僕にはよほどリアルなのだ。/

最近、大江の小説を読む度に感じていた違和感を、またしても感じざるを得なかった、とここまで書いてきて、イベントには参加しないつもりだったのだが、なぜか参加してしまい、おまけに読了を断念して図書館に返却してしまおうと思っていたのに、どういう訳か読み続けてしまった。/


亡くなった友人、E・W・サイードの思い出のある美しい本に、知的障害のある息子のアカリがボールペンで書きこみをして汚してしまう。/

【私は、暴力的なほどのもので胸を塞がれた。アカリの膝に開かれている楽譜の部分が、いちめん黒ぐろと囲まれ、上辺の空きには、大きくK550と書かれている!私は血相を変えていただろう、見上げて来るアカリの顔から微笑が消えた。
(略)
ーーきみは、バカだ、と私は大声を出していた。
アカリの顔に激しいものが動いた。ある間を置いて、かれは両腕を頭に強く廻し、その両腕をバタバタやった。かれ自身を殴りつけているとしか見えない動作。】/

前述の事件後、主人公は最初の大眩暈の発作を起こす。そして、発作の後は必ず真暗な眠りに墜落するようになる。/

【水の底の流れに浮いたり沈んだりしている‥‥‥しかしまだ渦巻にまき込まれてはいない。(略)この自分は私でありながら、私じゃない。私はかれだ、父親だ。眩暈におそわれた私自身より二十以上若い(略)父親だ、水死した父。そして私は、自分が父を愛しているのを感じていた!】/

父は、終生僕を認めなかった。
《私は愛しただろうか?》(浅川マキ「夜」)
不意に、物語が僕の方へにじり寄って来た。

この記事が参加している募集

#読書感想文

191,135件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?