荒川洋治『本を読む前に』(新書館)

荒川洋治は高名な詩人だが、僕は不明にもこれまで彼の詩をあまり読んだことがない。
僕にとっての荒川洋治は、NHKラジオ「カルチャーラジオ文学の世界 荒川洋治の“新しい読書の世界”」の講師として、黒島伝治の「橇」を紹介してくれた文学者だ。
荒川の紹介によって、初めて僕は黒島「橇」の素晴らしさに触れることができた。
彼のラジオを聴かなかったとしたら、おそらく僕は黒島を読むことはなかっただろう。
以来、荒川洋治は確かな「目利き」として僕の胸に刻まれた。/


本書で感銘を受けたのは、荒川が他の作家の作品を批評する筆の潔さだ。
それは、ときに文壇人にはあるまじきほど舌鋒鋭く切り込んで行く。
あたかも、シラノ・ド・ベルジュラックの剣先のように。
その姿には、ほとんどパレーシアステース※の面影さえ感じられるのだ。/

※ パレーシアステース:
《パレーシアとは「すべてを語る」ということですが、 —中略— またパレーシアを行う者はパレーシアステースと呼ばれますが、これは自分の考えていることを包み隠さずに語る者のことです。》(ミシェル・フーコー『真理とディスクール―パレーシア講義』)
《だれかがパレーシアを行使していると言われるのは、そしてパレーシアステースとして認める価値があると判断されるのは、真理を語ることで、その人がリスクを引き受け、危険を冒す場合に限られます。 —中略— ですからパレーシアとは、危険に直面して語るという勇気と結びついているのです。》(同上)/


僕のような一個人の感想とは異なり、文壇に籍を置く者が同業者の作品を批評する、なかんづく批判したり、異を唱えたりすることは、なかなか困難なことなのではないだろうか?
まあ、駆け出しの新人相手ならいざ知らず、ある程度実績のある書き手の作品に対して、好意的ならざる見解を表明するということは、批評された作家との関係や、その作品を出している出版社との間などに波風を立たせる怖れのある危険な行為なのではないだろうか?
ましてや、荒川は詩人である。
本業だけでどのくらい食べていけるのか甚だ疑わしい身分である。
にもかかわらず、荒川は発言する。
たぶん、言わないこと、お茶を濁すこと、うわべを取り繕うことの方がずっと生きやすいはずなのに。
おそらく、それは文学への愛と思い入れの深さのなせる技なのだろう。
そうした彼の文学への熱い想いは、今の時代にあっては稀有なものだと僕は思う。
それが、僕が荒川洋治を読む理由である。/


【『季節の記憶』は好評で、文壇の二つの賞に輝いたが、ぼくはこの作品は「あやしい」と感じていた。彼の最近の小説の特徴は、哲学の知識や思考をそのまま文章のなかに出して理屈をこねること。】/


【柴田氏の発言がのびのびしていておもしろい。そのいまいちばん元気があって信頼されている訳者が、ポール・オースターというおそらくは二流以下の作家の作品を多量に紹介しているのだから「翻訳」というものはむずかしいものなのだろう。】/


【田村隆一は『緑の思想』から言葉の数を減らし、語彙は再利用するという挙に出て「利殖的な詩作」の先例となった。わかりやすくいえばこれ以降詩人は自分ではなく自分の読者に詩を明け渡したのである。】/

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