『大江健三郎全小説4 』

◯「狩猟で暮らしたわれらの先祖」:
今回、『水死』に関するイベントに参加するために、単行本や文庫本ではなく、わざわざ全集を選んだのは、この短篇が読みたかったからだ。
ではなぜこの作品が読みたかったのか、それは僕がこう考えているからだ。
「われらの先祖」ばかりでなく、「われら自身」もいまだに「狩猟」で暮らしているのではないだろうかと。/

魔女を狩り、異端者を狩り、異教徒を狩る。
異民族を狩り、先住民を狩り、少数民族を狩る。
共産主義者を狩り、富農を狩り、走資派を狩る。
ウクライナを狩り、パレスチナを狩り、ウイグルを狩る。
不倫した女を狩り、違反者を狩り、内部告発者を狩る。
生産性の低い者を狩り、空気の読めない奴を狩り、変な奴を狩る。
障害者を狩り、高齢者を狩り、外国人を狩る。
人間とは「狩りをする人」ではないだろうか?/

【あの日「山の人」たちもまた、やはりつねにはだしだった。かれらが夕暮の校庭で山羊を密殺しようとする。山羊が逃走する。はだしの男が山羊に追いすがり、しばらくは山羊と男とが同じスピードで走っている。やがて山羊にむかって、男が駈けながらゆっくり躰をかしがせる。きわめて近接しながら、獣と人間とは非常なスピードで走りつづける。それから、山羊と男とが、一緒にスピードをゆるめ、ついにはとまり山羊と男とがからみあったまま、自転車が倒れるように横倒しになる。子供らの一団に加わって、それを追いかけていった僕は、すでに山羊が体内の血のあらかたを、校庭の丈の低い夏草の茂みにこぼしつくして、十全に死んでいるのを発見した。男は山羊の首筋からぬいたモズの嘴(くちばし)をズボンの腿にこすりつけながら起きあがる。】/

どうやら、大江が書きたいのは文字どおりの「狩猟民」だったようだ。
だが、津島佑子の『狩りの時代』もある。/

結局のところ、前述の僕の人間についての定義「狩りをする人」というのは、極めて一面的なものでしかない。
もちろん、人間とは「狩り/狩られる・人」なのだ。/


◯「われらの狂気を生き延びる道を教えよ」:
この作品で大江は、知的障害児を育てた自らの子育て奮闘記をやや戯画化して描いているようだ。
全身全霊で子供に寄り添い、想像を絶するほど困難な子育てに悪戦苦闘するその姿は、愛情にあふれ、微笑ましくもユーモラスだ。
大江には珍しく、際立って読後感の良い作品だ。/


【その日イーヨーは新しいスキー帽の具合をしきりに気にしていた。しかもそれは(略)、頭の皮膚感覚の尺度において気にかけるのであったから、(略)ついには耳も眉毛もすっぽり包みこむまでにスキー帽をひきずりおろして、イーヨーはやっと最終的な安定感を見出した。肥った男もそれにならって、確かに自分の嵩ばる頭をくるんだ帽子の感触の最上の感覚にめぐりあったと感じた。肥った男は電車の乗り換え駅で地下道を歩いたり階段を昇降したりする間、しばしばかれら親子に風変りな二人組を発見する、嘲弄的な見物の視線を感じたが、それを気恥ずかしく思うどころか、通路脇のショウ・ウインドーにずんぐりむっくりして嵩ばる二人組が写ると傍若無人な大声で、
ーーイーヨー、見ろ、肥ったエスキモーの親子だ、恰好いい!と熱っぽく叫んだ。】/


今回、イベントに参加するため『水死』を最初に読んで、それから先頭に戻って、「走れ、走りつづけよ」から「狩猟で暮らしたわれらの先祖」、「われらの狂気を生き延びる道を教えよ」と読んできたが、不思議なことに『燃えあがる緑の木』や『さようなら、私の本よ!』を読んだときに感じた読み難さや違和感はあまり感じなかった。/

僕は、学生の頃、大江はわりに読んでいた方で、当時は読むのに違和感など感じたことはなかった。(『ピンチランナー調書』で、初めて違和感を感じて、それ以後は全ての作品を網羅するというのではなくなってしまったが。)/

NHK《100年インタビュー「作家・大江健三郎」》で、大江は晩年の五作(『水死』、『宙返り』、『取り替え子(チェンジリング)』、『憂い顔の童子』、『さようなら、私の本よ!』)に関して、「エラボレイト」(丹精する、精巧[念入り]に作る。)ということと、「削って書く」ということを言っていた。/

してみると、後期の作品を読んで感じる読み難さや違和感は、むしろ意識的に作り出されたものなのかもしれない。
イベントで「水死」の初稿を目にしたが、そこではほとんど原型を留めないほどの凄まじい削除と書き込みがなされていた。
最終稿が難解で、多少読み難かったとしても、それはおそらく周到に考え抜かれた末の難解さ、読み難さなのだろう。/


尾崎真理子「復元された父の肖像」:
【批評家の加藤典洋は、『水死』という作品に到達した大江健三郎の晩年は、「問い」の形をしている、最後の戦後派としてのしめくくりの仕事をしていると評する。〈誰もがここが終わりだ、というところから、再び新たに歩みはじめること。それが、先に挙げた問い、大江健三郎の晩年とは何かの答えである〉】(『敗者の想像力』)/

まさに、瞠目である!
僕が大江を読んでも今ひとつ面白く感じられないのは、僕に絶対的に知識量が不足しているためなのかもしれない。
知らないから分からない、読めないのであり、知らないのは知ろうとしなかったからなのだ。/

『水死』で、大江はなぜ夏目漱石『こころ』を取り上げたのか。
それは、『水死』が、戦後民主主義に殉死していこうとしている大江自身の《記憶して下さい。私は斯んな風にして生きて来たのです。》(夏目漱石『こころ』/『水死』より。)だったからではないか?/

イベントで誰かが言っていたが、最近、大江の小説はあまり売れていないらしい。
やはり、大江の小説は重厚長大な「昭和」の小説なのだろうか。
だとしたら、「昭和燃えつき棒」としては最後まで付き合ってみたい。/

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