目取真俊『虹の鳥』

中学校で、ワルの上級生比嘉たちから日常的に暴力やカツアゲを受けていたカツヤは、いつしか比嘉の子分として生きて行くようになる。
現在は、比嘉から蟻地獄の穴に落ちた少女たちを預かって、その面倒をみるのが彼の仕事だ。
少女たちを買った男たちの写真を撮って、それをネタに金をゆするという比嘉の商売の片棒を担いでいるのだ。
だが、カツヤが少女に対して抱いたほんの僅かな同情が、カツヤと比嘉との間の溝を少しずつ拡げて行く。
美人局の元締めのような比嘉とそのパシリであるカツヤとの関係が、米軍に象徴されるアメリカと日本との関係に、ものの見事に符号している。
パシリのカツヤは比嘉を怖れて、比嘉のどんな理不尽な振る舞いにも何一つ言い返せない。
ちょうど、日本がアメリカに対して、米兵による婦女暴行などの事件が何百回起きても、基地を返せなどとは絶対に言い出せないように。
これこそが「人間の羊」であり、「羊たちの沈黙」である。/


執拗な暴力描写の連続に、一度ページを繰る手が止まってしまった。
生まれついての被害者タイプの僕は、暴力描写はあまり得意じゃない。
暴力を振るう快感よりも、暴力を振るわれる痛みの方に共振してしまうのだ。
しばらく本が読めなくなって、仕方がないから録りためた映画やドキュメンタリーを観て過ごした。/


そんなとき、ふと「不断の闘争」という言葉が浮かんだ。
なぜ、「不断の闘争」が必要とされるのか?
それは、自由や民主や基本的人権を求める運動が、必ずや負け続けるからではないか?
五十回でも、百回でも立ち上がっては、その度に負け続ける。
負け続けては、「水」のように逃げ惑う。
そして、またゾンビのようにむっくりと立ち上がる。
決して暴力によるカタルシスではなく、ただひたすら負け続け、闘い続けること。
そうした苦闘の連続の中で、少しずつ何かを変えて行く。
なんとなく、僕はそんな生き方の方が好きだ。
あるいは、物語にはカタルシスが必要なのかもしれない。
だが、本当に必要とされているのはそういうことではないのではないか?
そんなわけで、目取真俊の小説は好きだが、僕はこの作品は苦手だ。

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