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理論武装してもわたしはわたしを騙せない

わたしは「向き合う」ってどういうことかちゃんとわかっていなかった。
向き合うのはとても体力を使う。しんどい。にげてにげてにげて、いろんな言い訳やことばで自分を騙しておさえ込んで嫌な感情を無視するのは、ラクだった。逃げ癖がついてんだ。
人と付き合うことにおいては、相手の型にはまりに行く方がラクで。でも、型にはまる寸前でいつもわたしは、これじゃないと気づいてしまう。

いつもわたしは自分のなかに湧き出た負の感情を相手に伝えることなく、自分でも認めてあげられなくて、溜め込んで、苦しくなっていた。ずっと自分の感情を否定していた。
でも、感情って自分でコントロールするより先に湧き出てしまうものだから、少なくともわたしはコントロールが上手にできないから、諦めることにした。
だってそれがわたしなんだ。わたしくらいはわたしの感情を認めてギュってしてあげよう。
そういうことを思っていたら、いつのまにか自己嫌悪に陥りそうになると「まあそれも個性」と流せるようになった。

諦めるというのは、自分を、自分の気持ちを認めることで。自分を認めてあげられなかったら、そこから動けなくなる。
受け入れて認めることで前進できるって、前々からずっと思ってはいたのに、ずっとできなかった。
したいのにできない。認めたいのに否定してしまう。認めるよりも否定していると、他人から否定された時にわかってる顔ができると思っていた。悪いことが起こっても傷つかないようにネガティブに考えておくとか。
でもわかってる顔なんかできなくても、予防線なんか張らなくても、わたしがわたしのこと認められてだいすきだったらそれでいい。それが一番いい。

だれかが正論しか言わなくて、感情をガン無視したような“正しいこと”を言ってきたとしても、わたしが理論武装して考えていても、感情の前では全部が無力。
正論なんかなんの盾にもならない。正論でどうにもならないこともある。
だから、感情の話をちゃんとしなくちゃいけない。何が正しくて、なにをすべきで、どうあるべきなのか。友だちや恋人や家族には正論よりも、多分感情の方が大事だ。相手の感情にちゃんと寄り添えること。
なにが正しいのかなんて、みんなわかった上で悩んでると思うのは、過大評価かな。

大丈夫だよ。普通か普通じゃないかなんてどうでもいいよ。
ちゃんと愛を持ってる人だって、いろんな人が教えてくれるから、だれも恨まず、そばにいてくれる人たちを愛して、そういう風に生きてこられたから、大丈夫。

考えて考えて考えて、やになって、泣いて泣いて泣いて、寝られなくなって、そういうことがたくさんあって、脆いよねとか言われちゃって、反発する気力も尽きて。
それでもそんなに色んなことに敏感に反応してたくさん考えてるから、だからこそ、ちょっとでも人に寄り添えるような人間になれてる気がするから、そんなわたしも愛していけたらと思う。

わたしの感情にはどんな言葉や正論でも太刀打ちできないけど、それでいい。正しいことじゃなくて、わたしの思うままに、愛情たっぷりに生きていけばいい。
正しいことは大事だしわかっておいた方がいいかもしれないけど、それを選ぶ必要はないよ。

何回も何万回も言って、忘れるたびに思い出して、ちゃんと自分をぎゅってしてあげたい。
愛のない言葉は、避けきれないこともあるんだけど、それでもどうにか生きていけるように、大丈夫になれるように、ばかみたいなプライドも自己愛も丸ごとぎゅってしてあげる。

今日もちゃんと生きててえらいな。それだけで尊いし、最高だよ。
心のざわざわももやもやも、全然なくならないのに、辛くて泣いちゃうのに、どうしようもないのに、ちゃんとがんばっているね。

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