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流浪の月

朝早く目が覚めてしまったので早朝から映画を見た。それがもう、あまりに気持ちの落ちる映画だった。気持ちが落ちるほど、考えさせられる描写の多い、いい映画だった。



帰れない事情を抱えた少女・更紗(さらさ)と、彼女を家に招き入れた孤独な大学生・文(ふみ)。
居場所を見つけた幸せを噛みしめたその夏の終わり、文は「誘拐犯」、更紗は「被害女児」となった。
15年後。偶然の再会を遂げたふたり。それぞれの隣には現在の恋人、亮と谷がいた。

感じたこと、考えたことがあまりに多すぎるのだけど。たくさんありすぎてうまく言葉にできないから、その中で一つだけ「教育の怖さ」みたいなものに焦点を当てる。

文は、教育熱心な母親に育てられる。ある日、文は母親が庭の木を「育ちが悪いわね」と引っこ抜いているところを目撃。「お母さんは木を出来損ないだと処分したけど、僕の事も出来損ないだと思っているの?」と尋ねると、「産んだ私が悪いの?」と返事する母。

この一場面だけだったのに、「母親からの呪縛」みたいなものを感じてしまって、とても苦しかった。成人女性に対して恋愛感情を抱けず、コンプレックスになってしまったのも、体のことだけじゃなく、母親との関係からかな、と思ったり。

大学生になって、一人暮らしを始めた文は、自由になった。はずなのに、母親が今までしてくれた通り、規則正しく食事をとり続ける。

教育って、そういうことなんだ。小さい頃から、植え付けられていくと、自由なようで、ずっと心は縛られている。別に、夕食前にアイスを食べたっていいんだよ。

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わたし自身、大学生の頃まで、「母親の理想の子ども像」になれない自分に苦しんで生きていた。

パン職人になると決めてから、やっとその苦しみから解き放たれた感覚があった。初めて母親の意見を聞かずに進路を決めた気がする。

母が、わたしの幸せを思って教育を施してくれていたのは、本当によく分かるし、感謝している。

わたしが高校受験に成功した時に、母親が友達にそれを自慢げに話している姿を見て、心底悲しかったのを思い出した。受験のストレスで過食嘔吐をしていた当時のわたしは、ただ愛が欲しかったんだろうなと振り返ると思う。わたしが何者かにならなくても、ただわたし自身を見て欲しかった。

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人の闇は、その人だけのもの。文の闇も、さらさの闇も、それぞれにしか分からない。他人が好き勝手言っていいものじゃないのだ。

「母親にも色々考えがある」「母親になればわかる」、そんなの分かりきってる。わたしの闇も、わたしだけのもの。だれにも入らせない。

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