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きはじ 2

 ギリギリの成績で進めた高校の美術コースはどこか内向的な男子が多くて、恋愛沙汰が少なかった。陰鬱ではなかったけど、喜怒哀楽の大半が内輪乗りだった。その中でも特に普通コースとの関わりが薄弱な仲間とつるんでいたから、俺が女子と付き合い始めたことを零すと、クラスの連中は文字通り目を剥いていた。
 普通コースの歌川とは図書室で出会った。もしかしたら、それ以外の場所で見つけていたのかもしれないけれど、初めて言葉を交わしたのは図書カウンターの前だった。借りた本に関して一言二言。確かその前年の本屋大賞を受賞した本だったと思う。それから見かけたら声をかけるようになった。お互いに近いジャンルの本や創作の話が出来たから、言葉に詰まることは少なかった。ただ、ずっと歌川の瞳を直視できなかった。
 俺は、本当に惹かれた人の瞳は見ることが出来ない性質だった。
火曜日と木曜日、俺達は決まって同じ場所で昼飯を食べた。放課後に勉強の自習をする時は必ず図書室を選んだ。誘われた文芸部にも入って、部活動時間帯は主にイラストを描いて過ごした。そんな小さなことを一緒にすることが、当時の俺達の付き合うことの意味だった。それに満足できる自分だったし、彼女も何も言わなかった。
 普通コースと美術コースでは少しずつカリキュラムや進路に向けた勉強にズレが生じていく。将来のことを考えねばならない、と繰り返し聞かされ、迫りくる壁のような期限を前に、誰もが身の丈を越えて飛び跳ねる練習をしていた。俺もその例外ではなかった。
 少しずつ会う機会が減って、部室に足を運ぶことも無くなって、俺は彼女と自分を繋げるものが減っていくのが怖くなった。そこで初めて文章を書くことに熱心になった気がする。今までは適当にその場凌ぎの言葉を並べていただけで、意味は誰かによって勝手に見出されればいいと思っていた。それが、ここに来て初めて真剣に意味を考えた。愛の言葉のような大袈裟なものではなくて、下らない雑談に近い文章を、小さなイラストと一緒にルーズリーフに書いて、下駄箱に放り込んでいた。その裏に歌川が同じくらいの文量の返事を書く。バレンタインなどに関係なく、たまに小包のチョコが入っていた。
 進路が決まって、俺は横浜に留まることが決まった。歌川は茨城だった。俺と彼女の間に大きな距離が横たわった。決して遠くはない。ただ、全く別の生活空間に行くのだと解った。路線図や地図で何度も両大学の最寄り駅を眺めていた。
「離れるんだね」
 軽く放り投げるような一言から切り出した。
「最初から普通と美術だし、仕方ないね」
 ちょっと間を置いて、優しくしようとしていた口元から溜息が漏れる。
「ありがとう、高校生してた」
「高校生してた?何それ?」
 無意識にわざとらしく笑っていた。それでも彼女が俺を笑わせようとしていると解ったから、本心から嬉しかった。
「もう少し付き合おうか」
 俺は色々な言葉に騙されていた気がする。同じ関東地方、とか。長時間通話、とか。
「うん、そうだね」
 歌川も一緒に騙されてくれたみたいだった。でも、それが長く続かないのは、後から考えれば当然だった。定期的に話して、身の上話や世間話をいくつも投げ合って、お気に入りの本を紹介し合っていくうちに、二つの軌道が少しずつ逸れていくのを感じないではいられなかった。

 俺は歌川の前で立ち現れる自分が、高校の時の自分と緩やかに、しかし着実に乖離していくのが解った。それは綺麗な言葉にすれば成長だから、何かの喪失のような表現で覆い隠すようなことはしたくなかった。俺は、蛹を破って飛び出した蝶のように、人付き合いが上手くなって、あのどこか不器用な頃の自分を脱していくのだと悟ったような気でいた。
 それは別れと同時だと、また歌川に切り出されて初めて気付いた。
「お互いさ、変わったんだろうね。色々」
 二年目の春を迎える直前だった。
「うん、変わった」
「何か、何か、どういうことなんだろう。嬉しいね」
「うん」
 俺は喉に熱い唾液を貯めたまま、頷くことしかしなかった。
「ねぇ、付き合うっていうのは、やめようか」
 歌川ははっきりと言い切った。俺は答えなければならなかった。
「友達に戻ろう」
 歌川は少し泣いていた。その時、あっという間に届く声が泳いできた距離のことを考えていた。人は鈍足だ。人の道具は時に音よりも速いというのに。出会う早さや別れる早さ。生きる時間の速さ。二つあれば重ね続けることは難しく、離れれば徐々に見えなくなっていく。そんなイメージが漠然と浮かんだ。考えすぎたせいで、現実から遊離した空想が目の前を泳いでいたのかもしれない。
「ねえ、スミ」
 俺の名前を呼ぶ声は、同じ校舎にいた時のように届いて、思わず顔をハッと上げる。視界には、みなとみらいの光と真下の住宅街の仄かな星雲が横たわっていた。
「好きだよ。今までありがとう」
「うん、今日まで楽しかった」
 これが彼女と交わした最後の言葉になった。友達に戻って、俺達は暗黙の了解で話さなくなった。新しく誰かと付き合い始めた訳ではない。向こうがどうなのかも知らないまま、二人して出会う前に戻った。それだけのことだった。
 大学生四人が乗った軽がガードレールを突き破り、崖から転落するという事故を知ったのは、ゴールデンウイーク初日の夕方だった。ネットニュースに速報で流れてきた映像には、拉げて曲がったガードレールと燃えるワンボックスが映っていた。前面は大きく大破し、後部の骨格も殆ど原形を留めていなかった。その時はよくあることだと思って次のニュースをフリックしていた。
 夜のテレビニュースで乗っていた四人全員の死亡が確認されたという報道がなされた。「歌川真宙」の字が飛び込んできたその一瞬で、全身の力が抜けた。視線だけは画面を捉えていた。情報が流れ込んでくる。詳しい事故の原因は調査中、頭を強く打ち死亡、筑波大学の学生四人が乗った……順番も秩序も無い文字列が頭の中を右往左往している。
 何かに化かされたと思って、歌川の電話番号に当たる。発信して、底知れない虚無の奥から自動音声が流れてきた。俺は静かに倒れていた。何をしていたのか覚えていないけど、気が付いたら朝になっていた。
 二つ、或いは二人。基準点があって、両者の間には距離がある。片方が亡くなれば、それは距離ではなくなる。昨日まで線分だったはずの、俺と歌川のそれは、気付いたら端の無い線になっていた。行く先が無くて、届きようがない。どんな速さでも向かえない片一方がぶらりと垂れ下がっている。
 同じではないけれど、見分けがつかないほど似た景色が目の前を流れていく。答えを出せなくても思考は巡っている。
 別れの挨拶をしてくれたのは、虫の知らせが歌川の下に届いたからなのか。今まで、俺は何を彼女に依存していたのだろうか。もう会うことも無かったかもしれないのに、どうして失ったことに気付いたんだろうか。気付かなければ、知らない場所で、知らない人と幸せになっていく歌川を想像しながら、俺は平然と生きていたのだろうか。
 一カ月ほど、何も手につかなくなった。バイト先の小道具の使い道が急に解らなくなった。作品データが入ったメモリを家に置き忘れた。それで発狂してしまうとか、そういうことはないままに、体の内側が常に静かなパニックで、日常生活の人に見せない部分から疎かになっていった。
 どうにもならなくて、ついにバイトを止めた日、アパートの最寄り駅を出ると、片手にビニール袋を提げた父がいた。何も言わないまま、部屋までついてきて、調味料の配置も知らないはずの部屋で当たり前のように夕飯を作り始めた。何も聞かないのか、ということすら聞けなかった。何の気も無い、ただの偶然ということもあり得た。父が俺の生活に干渉することは殆どなかった。もしかすると、歌川と付き合っていることも、昔少し話題に出したきりだから、忘れているかもしれない。
「どうして急に来たの?」
 結局、言葉を選んだ末に出た一言はそれだった。どこか素っ気ない響きがして、声に出した直後に後悔した。
「いや、お前がどうしているかなって」
 父の言葉もまた、同じくらいに素っ気なかった。俺は振り向かないまま小さなテレビに向かい合う背中を見つめていた。別にそれが立ち直るための力をくれたわけではない。ただ、一つの契機にはなりえた。無意味に焦っていた自分の内奥が不思議と落ち着いていくのが解った。
 時々、交通事故のニュースを意味も無く怖がって、酩酊の時に懐かしい顔が垢抜けない頃の自分と一緒に浮かんで、一瞬だけ心臓が焦る時も、それらが真夏の湖の鏡面に漂う蜃気楼のように消えた後には、不思議と呼吸も脈も整っていた。
 ただ、専門学校で恋人が出来ることは、ついになかった。バイト、インカレサークル、授業。変に人付き合いを頑張った挙句、皆の良い人に止まっていた。それで何か損をしたとか、後悔をしている、ということはない。
 ただ、使えない連絡先の残り滓が少しずつ減っていって、ついには自分も消そうと思った時、自炊する料理の味の薄さに気付いた。
 脈絡も論理も無いところに、人の本質はあると考えるようになったのはその時だった。
 父の味付けの薄さを知りながら、倣うでもなくそれに近似していく。母の行方を案じながら、それに近付くこともしない。漂うように独りよがりな無難を生きて、この感覚に帰結する。生き延びるには十分で、むしろ健康的で、ただ味気ない。塩だけが味の全てではないが、塩でしか絶頂しない味蕾が間違いなく人には備わっている。
 俺のそこは、もはや麻痺しつつある。そう確信した。けれども、依然としてそれで何かできるわけではなかった。使えない思索は何の説得力も持たない所感を孕んだまま、山積していくばかりだった。

※写真はhttps://sothei.net/school-classroom-7724 より2022年9/24取得

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