劉邦の父・劉太公──幸福な庶民、不幸な太上皇帝
歴史雑記086
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はじめに
庶民から天下を取ったのは、中国史長きといえども漢の高祖・劉邦と、明の太祖・朱元璋のふたりだけであると言われる。
明代は専門ではないので、今回扱うのはもちろん劉邦のほうである。
といっても、劉邦その人でなく、彼の父「劉太公」とその家族について考えてみたいと思う。
『史記』だけでなく、近年の出土史料研究の成果も活かしつつ、劉太公が戸主であった頃の劉家について、どれだけのことがわかるのかひとつ頑張ってみるとしよう。
そしてまた、『史記』が幾分詳しく語る、統一後の劉家についても、劉太公の立場から見ていきたい。
※ヘッダ画像は、中国ドラマに出てくる劉太公。
諱も生年も不詳
さて、劉太公の「太公」というのは「太上皇帝」の略であって、諱ではない。
劉邦が漢6年に即位したことで、まだ存命であった「劉某」は制度的に「太上皇帝」となり、諱は伝わらなくなってしまった。
『史記』の代表的な注釈書のひとつである『史記索隠』からは、諱を「煓」とか「執嘉」とする伝承のあったことを知ることができるが、『史記』『漢書』には見えず、にわかには採用し難い。
やはり劉太公の諱は不詳としておくべきであろう。
また、劉太公の没年は漢10(前197)年で、劉邦に先立つこと2年であるから、割と長命であったようではあるのだが、生年もやはりわからない。
劉邦と同時代の人物・喜
大量の法律文書などが出土した睡虎地十一号墓の墓主・喜は、劉太公とは逆に姓が不明なのだが、生年は昭襄王45(前262)年で確定、没年も始皇30(前217)年ごろと考えられている。
上の生没年から算出すると、喜は数え46歳で没したということになる。
劉邦の生年は二説あるが、有力な説では昭襄王51(前256)年生まれで、没する漢12年は前195年になるから、数えで62歳。劉邦と喜はほぼ同時代の人物で、いま少し喜が長生きすれば、秦末の動乱に巻き込まれていたことだろう。
劉邦と喜が同世代人だとするならば、劉太公はもうひと世代上の人物ということになる。
しっかり骨も残っていた喜さん。
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