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古典とバランス

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 この記事は僕の個人的見解を記したエッセイなので、そんな感じで読んでもらえれば幸いです。

 さて、先日世間的には「識者」と呼ばれるある人が、「若者に本を薦めるなら古典である」というような趣旨のことを書いておられた。
 僕もその意見自体に異論があるわけではないが、当該識者氏が挙げておられた具体的な古典の著作者名には少々違和感を持った。
 いちいち列挙はしないが、それはプラトンに始まり、近代西洋哲学やロシア文学につながるラインナップで、そこには日本や中国、インドなどの諸地域に関連するものは皆無であった。

 僕がその時に率直に思ったのは「なんだか、バランスが悪い気がするな」ということであった。
 古典を読む価値はさまざまにあると思うが、日本に生まれ育った日本の若者に、西洋やロシアのものばかり読ませるのは、彼らを「何者でもないもの」にしてしまいかねないと僕は思う。
 識者氏は、記紀や『万葉集』、『源氏物語』、そして『論語』に『左傳』、『孟子』に『孫子』などのわが国や東アジアにおいて読み継がれてきた前近代の古典には一通り触れた若者を読者として想定しているのかもしれない。

 とはいえ、それでもインドを中心とする南アジアの前近代の古典や、近世以降の南米の文献、アフリカ大陸や中東に産するものが欠落しているのは、やはりいささかバランスが悪いと思わざるを得なかった。
 あるいは「自家薬籠中のもの」だけを紹介したのやもしれぬが、ならばそう前置きしてもよかったのではないか、と思った次第である。

 あまり長々と申し述べるのもなんだから、僕なりの考えを示して終わりとしよう。

 いったい、「古典」といってもさまざまある。古代インドの『マハーバーラタ』と夏目漱石の『こころ』はまったく異質であるが、現代日本においてはともに大きくは「古典」にくくられている。
 これらの「古典」という大きな箱に入っている書物は、いたずらに濫読してもよい。若者であるうちに、少しは触れておくことを個人的には勧めたい。

 ただ、古典それぞれの成立背景や受容史というものを気にすれば、効能はより一層高まる。
 あなたが手にしている「古典」は、いつの時代にどのような人(あるいは人びと)が、どのような目的のもとに著し、そしていかにして残り、読み継がれてきたのか。
 文庫本などに入っているものは、そのあたりを簡便にまとめた解説や解題がついているものが多いから、その部分も精読していただくとよいだろう。

 つまり、時代的、文化的、政治的背景をおさえたうえで、当該の「古典」を読んでほしい。
 そして、願わくは、あなたが日本で生まれ育った人であるなら、「日本」あるいは「東アジア」の人びとが伝統的に「古典」としてきたものに触れてみてほしいのだ。

 かつて、軍国少年として敗戦に直面した北杜夫は、トーマス・マンに憧れてマンボウ航海に出た。そして、異国と異文化に触れることで、改めて日本の古典を読み返すに至った。
 これは時代の影響を強く受けた文学者の一例に過ぎないが、北杜夫との関連で言えば、かの近藤紘一が外地に赴く際には、その荷物中には必ず斎藤茂吉『万葉秀歌』があった。

 つまり、東アジアとその中の日本で「古典」とされてきたものに触れることで、異邦の「古典」を読む際の軸ができあがると考える。
 そして、ひとつの軸をもって諸々の典籍に触れ、そのなかから、自分が体系的に収めたい学問が何なのかを選び取るのがいいのではないか。
 これが大学進学前にはっきりしていればおよそ理想的と言っていいだろうし、学び直しの際にも有効な基準足りうると思う。学び直しは何歳からでもできるのだし。

 思いのほか長くなってしまった。この文章をここまで読んでくれた皆さんに、よき古典との出会いがありますように。


 なお、僕自身バランスが悪い人間であることを自覚しているので、とてもではないが広く若者に向けて「これこれを読むといい」といった指南ができる資格はないと考えています。

(これより下に文章はありません)

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