劉邦をめぐるふたりの「呂臣」
歴史雑記050
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中国史史料研究会の会報で、「前漢功臣伝抄」という連載をやっている。
これはその名の通り、漢帝国建国の功臣たちについていささかの新説を交えながら書くものである。第7回となる次回(7月発行である)では、呂臣という人物をとりあげた。
しかし、実は同時期に呂臣という名の功臣は、実はふたりいる。
陳勝の後継者・呂臣
僕が連載でとりあげたのは、陳勝の仇討ちを敢行した呂臣である。
二世元年七月(当時の暦は十月から始まる)に陳に入った陳勝は、以降自らは動かず、呉広、周文、武臣、宋留、張耳、陳余といったひとびとを派遣して各地の平定を企図した。
このうち快進撃を見せたのが周文で、勝ちを重ねて雪だるま式に軍を増やすと、史上初めて函谷関を抜き、咸陽にまで迫った。
しかし、秦将・章邯の登場により周文は破れ、章邯はまっすぐに陳を目指して進撃する。
その間、幾度かの戦闘があったがいずれも章邯の勝利に終わり、陳勝は陳を脱出したが、下城父の地で御者・荘賈の裏切りによって落命することとなる(二世二年十二月)。
その後、秦に降伏した荘賈に対し、新陽で蒼頭軍という青い頭巾で統一した軍を組織し、陳を攻めて荘賈を討ったのが呂臣であった。
詳しくは会報で書いたのでそちらに譲るが、こちらの呂臣は父の呂青とともに懐王・項羽に重んじられ、項羽滅亡と前後して漢に降って呂青が列侯(新陽侯)となった(呂青死後は呂臣が嗣ぐ)。
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