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欲望と「道教」的なもの──やっぱり仙人になるのは難しい

 歴史雑記130
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はじめに

 「仙人になりたい」と言っていた、若くてかわいい女の子がいた。
 彼女が興味を持っていたのは、不老(不死)、本草学、養生術、東洋医学などだった。
 ながらく「学問的な態度」で以て、「道教」やら「神仙思想」と自分との関係を調整していた僕にとって、若くてかわいい女の子が「学問的興味の対象」≒「世間的には堅苦しくてつまらんもの」に興味を持つなんて、と驚いた記憶がある。

欲望の系譜

 ただ、考えてみればそもそもいま現在、「道教」やそこから独立したり半独立したりしているさまざまな考え方や技術というものは、人間の欲望や世界認識から生まれたものだ。
 ゆえに、現代の若者が興味を持つのも当然といえば当然なのである。なにせ普遍的なのだから。
 裏返しにすれば、「道教」的なものには、(主に東アジアの、そして人類の普遍的な)「欲望の系譜」が詰まっていると考えてもいいだろう。

 道教の神となった老子の思想として伝わる「小国寡民」も、大国同士が戦に明け暮れる戦国時代の人びとが願った世界という意味では「欲望」といえる。
 今回は──老子はややこしいので措いておくが──欲望と「道教」的なものについて少々書いてみようと思う。

不老不死と仙人

 元気に長生きしたい、いつまでも若々しくありたいという欲望、裏返して言うならば老化や病、そして苦痛を伴う死への恐れは、人類の欲望のなかでも長い歴史を持つものである。
 現代医学が目指すものも、究極的にはそれ(死の克服)であろうと思うが、いまのところわれわれは「120歳の壁」を突破する技術にたどりついていない。

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