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系譜はなぜ伝えられたか──桜井茶臼山古墳と闕史八代

 歴史雑記147
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ヘッダ画像は桜井茶臼山古墳後円部石室。橿原考古学研究所配布資料より。

はじめに

 どうも2023年は日本古代史にとって記憶される年になりそうだ。
 富雄丸山古墳に続き、こんどは桜井茶臼山古墳で、副葬されていた銅鏡の数が100面を超えることが判明したのである。
 桜井茶臼山古墳での発見については、まず下記の記事をお読みいただきたい。

 そのうえで、今回は記紀の保存した系譜について考えてみたい。

なぜ系譜の話になるのか


 どうして古墳の話から『古事記』や『日本書紀』に記された系譜の話になるのか、不審に思うひともいるかもしれない。
 ここは大切なところなので、丁寧に説明しておこう。

 桜井茶臼山古墳については被葬者にかんする伝承はないけれども、その築造が3世紀後半、降ってもギリギリ4世紀の頭くらいだろうと考えられている。
 考古学にはいろんな手法があるけれども、相対的な先後関係はその得意中の得意と言っていい分野である。『土偶を読むを読む』を読んだ方にはお分かりかと思うが、「編年」というやつである。
 なので、論者によって若干の違いはあるが、文献の解釈ほど大きく違うことはまずない。

 皆さんご存知の箸墓古墳は最初の巨大前方後円墳で、3世紀中頃の築造である。卑弥呼の墓かどうか取り沙汰されるが、『日本書紀』には倭迹迹日百襲姫(ヤマトトトヒモモソヒメ)の墓だという伝承が記されている。

『日本書紀』崇神紀より。右ページ後ろから2行目あたりからが箸墓に関する部分。


 前方後円墳に限らず、古墳には複数人が埋葬されることがよくあるから(富雄丸山古墳も蛇行鉄剣を副葬されたのは造り出し部分の被葬者である)、築造後も埋葬施設として一定期間利用されるのは想定する必要はある。
 ただ、築造年代は最初の被葬者の亡くなった(古墳を寿陵とすれば「生きた」)時期と高い関連があることになる。
 つまり、築造年代において、箸墓古墳と桜井茶臼山古墳は最大限長めに見積もっても2世代くらいしか離れていない。

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