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『趙正書』の出現と『史記』説話の相対化

 歴史雑記028
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前言

 過日、たまたまTwitterで下記のツイートがタイムラインに流れてきた。

 フォロワーも多い方なので、いささか訂正の意味も込めて北大漢簡『趙正書』の出現と、その史料的価値についてツリー形式でツイートした。
 かなり専門的な内容だったにもかかわらず、けっこうな反響があったので、本記事はそのツリー(2つに分けてしまうという不手際があった)を改めて合本改訂し、冒頭に竹簡を中心にした出土史料の増加の経緯をまとめ、そして『趙正書』について簡単な解題を付したものである。
 解題部分までは無料公開として、それ以降がTwitterで述べたことを再整理したものであるから、「まとまったものを読みたい」という人は単品で買っていただくもよし、解題とツイートを見て済ませようというのも機能的にはさほど変わりない旨ここに断っておく。

戦国〜漢簡の陸続たる出現

 中国では出土文字史料、特に戦国から秦漢期にかかる文書や文献が陸続と出現している。
 かつては居延漢簡のように北辺に遺されたものが研究の中心であったが、これは1972年の銀雀山漢簡(『孫子』『孫臏兵法』などが出土)、同年の馬王堆漢墓(『老子』、『五十二病方』、『春秋事語』、『戦国縦横家書』や遣策など)、75年の睡虎地秦簡(下級官吏の墓から秦律が出土、『キングダム』の「騰」が出した文書も含む)、などにより大きな研究状況の変化をもたらした。

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睡虎地の墓主・喜と遺骸を取り囲むように副葬された竹簡群

 同じく法制史的には83年の張家山漢簡もおおきなインパクトがあった(秦律と漢律を直接比較研究できるようになった)。
 その後も93年の郭店楚簡など新出史料の獲得は飛躍的スピードで進むが、「簡牘もカネになる」ということで盗掘者も増えたようだ。結果、博物館がブラックマーケットから購入したする例も多くなった。
 その代表が94年に上海博物館が香港の骨董市場から購入した上海楚簡(上博楚簡とも、上海博物館は上海博物館蔵戦国楚竹書と読んでいる)である。これは発掘現場から泥と一体の状態のまま、忽然と消え失せた郭店2号墓の竹簡である可能性が高いことから、馬承源館長(当時)がかなりの金額で買い戻したと言われる。
 以降、骨董市場(ブラックマーケット)を通じて簡牘を買い戻す事例(買い戻して研究機関に寄贈するなど)も増える。研究ノウハウも急速に蓄積されていき、浙江大左傳のような偽物は釈文公開後すぐに厳しい批判検証にさらされるようになっている(事実上大陸でも日本でも真物説をとる論者は壊滅している)。

『趙正書』について

 さて、『趙正書』が含まれる北大漢簡も骨董市場に由来する例のひとつである。
 北大漢簡は盗掘によって流出した竹簡を、関係者が買い戻して09年に北京大学に寄贈したものであるが、詳細な入手経路は明らかにされていない。
 北大漢簡は、総数三三四六枚とかなりの分量であり、かつ紀年簡があることから、おおよそ前漢武帝期にかかる史料と理解されている。
 その内容は多岐にわたるが、『趙正書』は五〇余枚1500字ほどからなり、篇題は竹簡に記載されていた(記載がない場合は内容から整理者が便宜的につける)。
 『趙正書』の特徴はいくつかあるが、まずは嬴政及び胡亥を「秦王」として秦の正統性を認めないこと。また、『史記』と重複を持ちながらも、いくつかの決定的な差異があることである。
 たとえば、『趙正書』のなかで始皇帝は末子・胡亥を後嗣とすることを自ら決裁している。また、趙高は章邯によって殺されている。
 これらは『史記』とは異なる歴史認識を示す点で非常に興味深いものである。
 ただし、短絡的に『史記』と『趙正書』のどちらが正しいか、というような史料の利用の仕方は慎むべきであると個人的には考える。
 以下、その理由について記そう。

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