鬱が少し改善するまでに考えたこと
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僕はいわゆる「大うつ病」の診断を受けている。
鬱病といっても各人原因や症状はさまざまで、僕は不眠が強く出るタイプである。
鬱は厄介な病気で、服薬ですっきり治ることはまずない。ゆえに、困っている人をカモにせんとする「これで鬱が治ります!」てきな悪辣な本とかも出てますが、まあ基本的にそういうのは全部怪しいと思ってください。
そんな簡単に治るなら医者も抗うつ剤も要らない。高濃度アガリクスで癌は消えない。そういう話です。
──で、素人なりに勉強しつつ、3年ほど付き合ってきたわけですが、あくまで個人的な感想としては、「合う主治医を見つける」「主治医を信じていう言うことを聞く」「焦らない」というのをやっていけば、少しずつ上向いたり、「悪くはならない」という意味で踏みとどまることができる。
今日はその辺りを少し詳しく書いてみることにする。
とはいえ素人なので、このエントリで書いてあることを鵜呑みにしてはならない。
すべての言説にはバイアスがつきものである。
治療の最初は自覚
鬱病治療の最初のハードルは、自らが鬱であることを認めることにあると思う。
これは、「普通」「健康」「健常」から降りることだから、社会規範に従順な人ほど大きな決断になることが多かろうと思う。
とはいえ、病識を持つことが治療の第一歩になることは、鬱に限らず病気全般に言えることだろうと思う。
もっと敷衍して、自らが抱える生きづらさ一般に拡大してもある程度有効な考え方でしょう。
わかりやすい例を挙げます。
僕の叔父のひとりは明らかに違和感を感じながら病院に行かず、村の知り合いには「ワシは癌や、もうじき死ぬ」などと言っており、結果的に手術不能な状態になってから病院に行き、キツい放射線治療を受け、丸ハゲになり苦しんで死にました。
早めに病院に行く、あるいは健康診断を受けていれば助かった可能性もあったわけで、彼は大変バカだったと思う。
合う医師を見つける
鬱病は基本的に二次障害と言われていて、「根っこ」が別にあることがほとんどである。
根っこの部分は別途対処が必要になるが、だいたいは精神だけでなく身体症状も併発する。
この身体症状を薬や認知行動療法、カウンセリングなどによって軽減し、それによって生まれたリソースを、根っこの部分の改善に回すのがいいというのが僕の考えだ。
その第一段階として、自分に合う医師を見つけることがある。
精神科医も得意不得意は当然あるし、誠実な医師であれば「あなたの症状はわたしの手に余る」ときちんと言ってくれる人もいる。
まずは合う医師──自分のような症例を多く知り、寛解に導いてきたひとを探そう。
ドクターショッピングのようになるのを恐れて、あるいは医師という「権威」に遠慮してセカンドオピニオンをためらう方が予後が悪い。
調べて勉強して、「おかしくない?」と思ったら試しに別の医師にかかるのも手である(実際にそれで改善する人はいる)。
薬のデッキを構築する
その次は、自分に適した薬のデッキを構築する必要がある。
たぶん、会う医師を引いてもデッキ構築には二ヶ月やそこらはかかるので、その間はまだまだしんもい。
それでも適当な投薬を受けるよりは、二ヶ月先、半年先が楽になるので、この期間はさまざまな公的制度を利用したり、可能な人は親族を頼ったりして可能な限り療養に専念したほうがよいと思う。
薬のデッキが決まれば、少し余裕が生まれたり、具合も底を打つはずである。
それでも波はある
薬のデッキ構築に成功すれば、具合が底を打ち、かすかな余裕が生まれてくる。
このかすかな余裕は、まだ根っことの対峙には使わないほうがいい。なぜなら、症状には波があり、季節的なものや対人関係上のものなど、自分ではコントロールできない波が押し寄せてくることがあるからだ。
リソースには余裕を持っておくことが大事であり、使い切ってはならない。
「最終的にできるだけ楽になる」ことが目的なのであれば、使わなかった余裕は「無」で処理するのがおすすめである。「なにもしないをする」は「なにもしない」という意思決定の結果として生まれた療養であり、これ自体が回復につながる大切なプロセスだからだ。
場合によっては、予想外の波を受け止め、やり過ごすためにも使うので、常に余裕は残しておきましょう。ギリギリまで頑張って、「今日はよくやった」というその場しのぎの達成感を得ても、長期的には寄与しないことが多いと個人的には思います。
「根っこ」との対峙は長期戦
鬱は二次障害であることが多い、とは先に書いた。
要するに、なんの原因もなくひとは抑うつ状態に陥ったりしないということである。
「普通」の人が「健康」に過ごせる範囲内でも鬱を発病する人はいるし、どんな患者にもバックグラウンドというものはある。
それは生育環境かもしれないし、特定の誰かとの関係かもしれないし、もしくは先天的な原因があるのかもしれない。
なかなか改善しない鬱病や、ほかの併発疾患が顕著に認められる場合は、「根っこ」もより深く巨大であることが多いだろう。いずれにしても、それを掘っていって、全貌を確かめるだけでも時間がかかる。
最終的には「囚われ」を捨てることだ、というのはよく言われる。
ただ、ここまで述べてきたように、そう簡単にいくものではない。たとえば生育の過程で身に染み付いてしまった行動様式を変えるためには、自分と向き合う長い旅が必要だろう。
かく言う僕も、まだまだ旅自体は続くと思っている(そういう考えを受け入れるだけでも時間がかかった)。
「治らなければ……」を棚に上げる
鬱病に限らず、持病というのは長く付き合っていく類のものであると僕は考えている。
とはいえ、「社会」には期限がある物事も多いので、「いついつまでに治らなかったらこれこれになってしまう……おしまいだ!」という思考にはまってしまうことも実によくわかる。
僕も鬱の診断と三ヶ月の療養が命じられたときには、「もうおしまいだ!」と思ったものだ。
ただし、主治医を引き当て、薬のデッキ構築を達成したあとは少しずつではあるが改善傾向が見られ、やれる範囲内での「社会」ができるようになった。
繰り替えずが鬱は風邪(上気道炎)のような病気ではない。「熱も下がったし咳も鼻水もない、スッキリ治ったぜ!」みたいなものではないのだ。
「完璧に治らなければならない」というプレッシャーそのものが鬱の原因たりうるので、そういう過激思想は棚の上に上げておくのがいいと思う。
「持続可能な状態」という落とし所
株式会社の連帯責任は無限責任だし、確定した損害賠償は自己破産してもまぬかれ得ないが、とはいえ人間は有限でありいつかは終わる。
「そういう話ではない」と思う人もいるだろうが、いやいやそういう話である。
無限で逃れられないように思える鬱の苦痛も、結局のところ有限である。まったく眠れずベッドで寝返りだけを打ち続け、枕元には菓子パンの袋とペットボトルが転がるあの日々を振り返りながら僕はそう思う。
鬱病は完璧に治ることはないだろうが、医師や薬や友人や家族や福祉やその他さまざまな助けを適切に得ることによって、ある程度の改善が継続する状態に持っていくことは不可能ではない。
仏説ではないが、どこかの状態で「足るを知る」になるのが割と重要である。これに際しては「発病前の50%くらい社会がやれるようになったのでヨシ!」とか、いい加減なラインを引くことが大事であり、ハードルを高くすると前項と同じことが起きる。
無限ではないがそこそこ長い人生、できないこと、できなくなってしまったことがあるのはまあ仕方ないとして、持続できる状態になっていれば、「とりあえずヨシ!」してしまいましょう。
また鬱の底に落ちたとき、「ここまで上がれる」という目安にもなる(落ちないほうがいいが往々にして落ちる)。
おわりに
そんなわけで、今日は若手(病歴的な意味で)鬱病患者が3年間で「発見」してきた考え方のハックを紹介した。
身近に抑うつ状態の人(家族、友人、同僚、Twitterの人)を持つ皆さんにも参考になればと思う。
そうそう、人間が有限であることと同程度以上に、コロナ禍も有限だと考えられます。
何度も波がくるでしょうが、余裕を持ってやり過ごしていきましょう。
皆様の長寿と繁栄をお祈りします。
(これより下に文章はありません)
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