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お米作り3年目、場所が無いかもなぁ。

コロナになって社会がザワザワしたあの春、みんな外出自粛になって小学校が休校になって、なんだかポッカリと穴が空いたような気分だった。

こんな時に、どうするか。
そうだ兼ねてから興味のあったお米作りを始めよう!と思った。

命が脅かされる病が流行る時こそ、命の根源である食、それを生み出す土を見つめたいという思いだった。もちろん、全く密でもないし野外だしとても良い機会だと思ったのだ。

すぐ近くに、移住者友達が田んぼをやっていたから、相談してスンナリと混ぜてもらうことができた。田舎暮らしは強い。そしてかなりグダグダになりながらもどうにか、種もみを撒いて苗が育ち、田植えをして草刈りをして電柵を立てて稲刈りをして、あれやこれや頑張って、無事にお米は出来た。

去年は2年目。同じエリアの違う場所に移っての1年。1年目よりはもう少し丁寧にきちんと....と思っていたけど結局2年目もグダグダだった。でも美味しいお米が出来た。

そしてこの春は3年目なのだけど、場所がまた動くことになって、しかも種籾を撒く時期の直前まで他のことでギャイギャイやってたせいで、ギリギリなのだけどまだ場所が見つからない。今年は田んぼをやれないかもしれない。他にも色々なことをやっているしやりたいから、それもまぁいいのかもしれないけど。でも物足りなさというか、寂しさを感じてしまっている。

しつこく友人知人に連絡して、使わせてもらえる場所が無いかを探っているここ数日。

やれたやられたで、きっと今年もグダグダなのだろうけど。そもそもうまく育てられるのかも分からない。

それでもやっぱり移りゆく季節を一番ゆっくりと豊かに感じることが出来たのは、お米作りの時間だったかもなぁと振り返って改めて思う。

私は別にあんまし農には興味ないと思う。他にすごく熱心な人たちをたくさん知っている。自給的な暮らしも、私自身は多分哲学寄りな感覚で、実践も可能な範囲でしたいけどライフスタイルとしての確固たるこだわりは薄い。

ただ自給的な暮らしは有事に圧倒的に強いというのは分かっている(つもり)。そういう生き物としての強さは、あらゆる面で常に模索し続けたい。そして日頃食べているお米がどうやって作られているかを体験として知っている豊かさというのはあると思うから、できる範囲で淡々と、やれたいいなと思っている。

でもまぁ〜〜場所がね、なので今年はやれないかもなのです。

去年の場所は眺めも良くてとても良い時間がたくさんあった。暮れていく空と風の心地よさ、あの時の空気。

今年はコロナに対する人の気持ちも随分ゆるくなってきたと感じている。1年、1年と同じような季節が巡りながらも様々なことが変化していく。もう戻らない時間がそこにあったのだと、過ぎ去ってから気づくこともある、いや、そればかりかもね。

それでも目の前にある時間と可能性と機会を、少しでも輝かせていけるように、今年あともう少しは動いてみようかなぁと思っている。作らなくてもいいんだろうけど。

お米作りは、楽しい。

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