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「親の木」

親と言う字は
「木の横に立って見る」と書くのだと
教えてくれた人があって
そんな木持ってないと
わたしは慌てた

たのもしく前を歩くちいさな背中に
伸ばそうとした手がとまり
すぐとなりの、まだ若くて細い
たよりない幹に触れてみる

子が育ててくれているのは
この木だ

子が生まれたときに
この木も芽吹き
わたしと、子のとなりで
笑顔と涙を肥やしに空へ伸び
まだ細くてもしっかり地に根づいている

いつかくる日に
わたしがぐっと堪えて手を添えるための木
子のかわりに抱きつくことができるための木
陰でそっと涙を拭うための木

あおあおと葉が茂る季節も
木枯らしに耐えしのぶ季節も
この木はわたしと共に

親という木を与えてくれた
子がとなりにいなくなっても
この木はわたしと共に

これまでの時を年輪に刻んで
太くなった幹にひとり手を添える
いつかくるその日まで
わたしだけの木がとなりで育っている


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子育て、というけれど自分が子どもを育てているというよりは子どもに育てられているなあと思う時が多々ある。妊娠してからそれまでバランスの良くなかった食生活を頑張って見直してみたり、子どもと社会生活を送るなかでマナーやルールについて改めて考え直してみたり。そうした生活全般のことももちろんだけれど、いちばん鍛えられるなあと感じるのは私の場合、メンタル面についてのことだった。

子どもが生まれてこんなに喜びを感じられるんやと思った反面、「自分ってこんなに怒れるんや」ということにも気がついてものすごく驚いた。妊娠や産後のホルモンバランス、ということも一助ではあるかもしれないけれど子の安全や快適さを思うあまり口うるさくなってしまうというのを自覚しながらもとめられず、それが自分自身へのストレスとなって知らないうちに引火して気がつけば大爆発…という経験をこの5年ほどで何回か繰り返している。そしてその矛先は主に夫に向いてしまうのも(ちょっと)申し訳ない。

わかりやすいのは怒りの感情だけれど、そのほかにも悲しみだったり小さなもやもやだったり、子どもにまつわることだとわが子を大事に思うあまり大きく心が動かされてしまう。「育児は育自」といういろんなところで見かける名言を何度も胸に刻みながら「修行や…」と呟きつつ、感情なんてコントロールできないけれどその表面化の手綱をなんとか握る練習をいまだ繰り返している。5年経って私のとなりの親の木がすこしでも育っていることを願いつつ…。

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