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詩という行為の先に見えるのだとしたら

先日、私が数年前にクラウドファンディングで絵本を2冊出した、ということを知った知人からこう尋ねられた。

「どうして絵本を描こうと思ったのですか」

甦ったのは8年前の記憶。

当時、就活生だった私はコピーライターとして京都の広告会社に勤めるか、東京の大手人材会社に行くかで悩んでいた。

ある冬の日の朝、京都の広告会社へのインターン出勤前、四条烏丸のカフェベローチェでリクルートスーツの私はホットココアを飲みながら窓の外を見ていた。

考えていたのは
「どうして私は"人間"に生まれたのだろう」
ということだった。

もっと他に考えることがあっただろうと、今振り返っても何故その問いに思いを巡らせていたのかが不明なのだが、その時の私は全身で「今これを考えなければ」と感じつつぼーっと店内から冬の空を眺めていた。

どうして人間なんだろう。
そもそも人間ってなに?
人間とそれ以外の違いとは?

結論からいうと、はっきりした答えは未だ出ていない。

それでもその朝私が思い至ったことを簡略化すると以下のようになる。

なぜ自分が人間なのかは分からない。
でも今人間であることは事実。
人間とそれ以外(たとえば犬猫や草木)の違いは
"感情"の動きにあるのではないか。

人は人同士でこころの動きを共有できるし、
それに自分の行動を伴わせることが出来る。

"こころを動かす・動かしあう"
という点がどうやら人間らしいのではないかと
その時は思い至った。

せっかく人間に生まれたのだから
人間ならではを楽しみたい。
私はどうしたら"こころを動かす・動かしあう"ことができるのだろう。

まず自らのこころが動く事として、本の世界や絵、文章表現が挙げられた。
それらをまとめて<絵本>に思い至ったのだ。

そして東京の会社に就職を決め、あたたかい上司と同僚に恵まれてクラウドファンディングで絵本を作ることもでき、会社内の講座で絵本セラピー®︎を開講させてもらい、本当に感謝しかない。

そんな原点である京都の冬の朝のことを久しぶりに思い出した。

あれから私は手段を変えて詩を書いている。

絵本もまた描きたいなと思うけれども、
ただ絵とお話が描きたかっただけではなくて

"その先にあるなにか"が見たくて

始めたのだったなということを改めて思い出した。

そしてその気持ちは今も変わっていない。

詩でも絵本でも
人として生まれたこと、感じられること、
できること、できないこと、
知らないこと、しっていること、
私たちは何なのだろう
世界は、宇宙は何なのだろう
それをずっと考え、感じ続けている。

その答えは出ているようで出ていなくて、
答えすら無くてもよくて
そして皆が既に知っているような気がしている。

そんな目には見えないけれど
抗えないほど魅力的な何かを求めて
いまは詩という行為で楽しみたい

という気持ちでいる。

余談だけれど、
詩を書くことは自分の状態のバロメーターになって喜んでいる。
疲れていたり状態が良く無い時は圧倒的に書けず、リラックスしたり快適な状態でいられる時は筆がのるので、自分自身が整えられているかどうかの目安にもなる。

気分と筆が乗ったからといって良い作品になるのかという話はあるけれど、
書きたいから書く、
やりたいからやる、
見たい世界を求めて。
という原点を忘れずにいたい。

なんか真面目になってしまった。

あれ〜物がなくなったな〜と思ったら
どんなものでも大体冷蔵庫から出てくる普通の主婦です。
この前はホッチキスがよく冷えていました。

読んでいただきありがとうございました〜。


★私的イチオ詩 (夜空三篇と宇宙のタマゴシリーズ)



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詩じゃないんや!という衝撃の展開。
(13000pvありがとうございます)
とても気持ちを込めて書いた出産レポなので嬉しいです。現在、妊娠・出産系の文章作品も準備中です。

Instagramでは子どもとの日々の詩をのせています。
@moe_minomikoto

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