ワンピースの和訳
雨。ジーンズにぽたりと垂れた水が、次第に間隔を狭めて重なるほどパサパサ降りしきる雨の中で私は泣いているものだから、雨粒だか涙だか分からなくて、周りの目を気にせずに泣けるぜしめしめと重力に添って顔に流れる水、涙、塩分を好き放題にした。
いつものことだが、気分が優れないと身体も優れなくなり、次第に天気すら優れなくなるものだから、言わばこれを『ついていないときはとことんついていない』と言うのだろうけど、そもそもついている状態の方が私にとっては奇跡であって、こんなにしょうもない人間は生きているだけ無駄なのであるから涙。
他に対する怒りのエネルギーが一方に流れると同時に、己の心にも同量刺さってくるわけで、どうにも心臓が握りつぶされて痛い。
ほとほと自分は人間として向いていないと感じるわけで、いっそ山奥で生きていくほうがあっているし、熊や鹿に遭って入るほうがあっている。
けれどもどんなに向いてなかろうが、腐っていようが自分は人間であるし、人と関わりあわない生活など無謀であり、そんなことが可能なのは、こんなにくよくよするような精神を持ち合わせる人間では到底無理なのであるから、そぞろ泣く。
雨に濡れて自己陶酔をするのも良いが脆弱な自分は風邪を引いて、こじらせて肺炎になる可能性もあるわけで、保身、してすぐ帰路につく。
そんな浅ましい自分、己、私にへどが出るわけで、何故こうも先が見えてしまうのか腹立たしい。すぐさま最悪のケースも、その先に起こることも予想できて、ちっとも幸せがない。
しょうもないことばかり勝手に考えて、勝手に消耗してしまうわけで、誰よりもそのしょうもねえくだらなさをを承知している。
じゃあ考えるのをやめればいいじゃん、細かいことなんか気にしなきゃいいじゃん、とアドバンテージを取ってアドバイスされるのはとてもありがたく平伏する。ははあ。
しかしながら、このしょうもなさは、眠たいときにあくびが出てしまうことや、脚気でない限りひざ小僧を叩かれたら足がグワンッと前方に揺れることと等しく、脊髄反射のようなものであるから制御できない。
小学生が通学路を闊歩している。
「ワンピースを日本語で言ったらドレッシング〜!!」
「ワンピースを日本語で言ったらドレッシングではありません!!」
なにやらひどく中身のない、ためにもならない楽しそうな、話をしている。
ワンピースを日本語で言ったら『一枚着』だろうか? どう思う?
見ず知らずの私が、子どもたちに聞けるわけもなく、歩幅で彼らを追い越した。
帰宅したら、捨てようと思っていたくたくたのシーツがあったので、試しに身体に巻き付けてみたらギリシア人の衣服のようになって、ワンピースっぽかった。
しょうもない意識に、しょうもない意識を重ねたら、ちょっと増しになったので、あたたかいほうじ茶を淹れ、半分痛んだレタスをちぎってドレッシングをかけた。
しょうもないなりに生きていく。
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