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ケインズとコンコルド効果

「この世で一番むずかしいのは新しい考えを受け入れることではなく、古い考えを忘れることだ」(ケインズ)

 ひとりの登山者の話をしよう。

 その山はひどく険しいが、頂上から見下ろす景色は誰もが夢見るほどの絶景なのだという。そんな絶景に惹かれて彼が入山してからすでに多くの時間が経っていた。長時間歩いて体は疲れきり、心なしか、思考すらも鈍っているようだった。
 一本道を歩いてきた彼の目の前に、ふいに分岐があらわれた。手元の地図によれば右の道を入って大きく迂回して行くと頂上へと辿り着くそうだ。不思議なことに、その地図には左の道は記されていなかった。
 右回りのルートを行けば、そこからさらに長い時間を要することになるのは明らかだった。さらにその道の途中には有名な難所がいくつかある。一方で、左の道は方角的にはまっすぐに頂上へと伸びていそうだ。どうしたものかと彼は悩んだ。それほどに疲れていたのだろう。

 悩んでいた彼の目の前を、ふと一羽の美しい鳥が横切ると、そのまま左の道の向こうへと飛び去っていった。その道の脇には綺麗な花々が咲き、奥には小川が流れているのが見える。少しこちらに行ってみようか。彼が選んだのは左の道だった。
 小川の水で乾いた喉を潤し、見たこともないような花々を愛で、そうして彼がその道の先に進んでから、いったいどれほどの時間が過ぎただろう。最初には歩きやすかった道は今では狭まり、それはほとんど獣道で、ただ歩くだけでも厳しい。
 それでも彼はめげなかった。その程度でめげるならば最初から山になど入っていない。彼は進んだ。進んで、進んで、そして一昼夜が過ぎたころーー藪をかき分け踏み出した足が木の根につまづいて転んだ瞬間、その衝撃で我に返るかのように、彼の頭にひとつの疑念が浮かんだ。
 「私は誤った道を進んできてしまったのではないか?」
 それはできれば気づきたくなかった事実だった。彼はその木の根を恨んだ。だが真に恨むべきは、当然ながら、誤った判断を下した彼自身に他ならないのだった。

 その疑念は彼の心に不安を、そしてその疑念の中身を事実として認めることは彼の心に痛みをもたらすものだった。彼の心はーーまるで自己防衛本能が働いたかのようにほとんど反射的にーーその疑念に対して反論を試みた。
 「いや、私が分岐を左に入ってからいったいどれほどの距離を歩いてきたと思っているんだ。今引き返したら、その努力がただの徒労に終わってしまう。さらにその先には、あの右回りの長く険しいルートが待っているんだ。こんなに消耗しているんだ。もうその選択肢は私には残されていないーー」
 これが彼が下した二つ目の、そして最後のものとなる、誤った判断だった。ただまっすぐに先を目指して進み続けるだけの行為は、その単純さと厳しさがゆえに、彼の体力のみならずその適切な思考力をも奪っていた。暗い薮の向こうには太陽の光が微かに見えていた。そこがきっと頂上に違いない。彼は藁にもすがる思いで、一歩ずつ、足を踏み出した。薮を抜けた先にある、切り立った崖に向かって。

 この彼の最後の誤った判断を誘発したのが、行動経済学における認知バイアスのひとつである「コンコルド効果」と呼ばれるものだ。
 コンコルド効果は本来は投資やギャンブルの世界で必須科目とされているもので、そのまま投資やゲームを続けても損失が拡大する一方であることがわかっていながら、それまでに費やした時間や金、労力などのコストが無駄に終わることを惜しんで手を引けない心理現象のことを指す。彼はそれまで歩き続けた努力がサンクコスト(=無駄にしたものだと諦めて損切りをするべき費用)として水の泡になることを受け入れられなかったのだ。
 しかし彼の置かれていた状況は、規模の小さい投資やギャンブルなどと比べればいささか厳しいものだったともいえるだろう。それがマネーゲームならば手仕舞いをしてまた別のテーブルに座ればよく、その間に休んで英気を養い、自分のミスを分析して戦略を練り直すこともできるだろうが、山ではそうはいかない。動き出さなければその場で飢えるのを待つだけであり、いかに体力と思考力を奪われた状態であったとしても、ほうほうの体に鞭を打ち、なおかつ正しい判断を下さない限りは生き延びられない。

 それは近道をしようとしてレバレッジをかけたようなものだった。引き返すだけでさらに倍のコストが無駄になることを覚悟しなければいけない。それだけが彼に残された出口戦略だったのだが、そのサンクコストは、すでに分岐に辿り着いた時点で消耗していた彼には大きすぎた。損切りのタイミングも獣道の途中で超えてしまっていたのだろう。彼は誤った戦略に突っ込み、バンクロールを焦げつかせて窮地に立たされ、それゆえに強くかかった認知バイアスにも惑わされ、文字通り致命的な判断ミスを犯してしまった。
 絶対に誤ってはいけなかったのが、最後の崖っぷちでの選択だった。いつか不運にも崖っぷちに立たされてしまうことがあったら、この行動経済学のマジックと、ケインズの言葉とを私たちは思い出すべきなのだろう。「この世で一番むずかしいのは新しい考えを受け入れることではなく、古い考えを忘れることだ」ーー視界と心を奪うバイアスに自覚的になり、窮地にこそ「一番むずかしい」とされる判断を下すことで、生き延び、たとえ時間をかけてでも頂きへと辿り着きたい。そしてそのためにも、状況の機微をとらえて必要とあらば費やしたコストを切る判断力を日頃から養っておきたい。

#行動経済学 #日記 #エッセイ

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