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Paris

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2018年11月の記事一覧

Paris 8

 女が一人、入ってきた。ドアノブにかけられた白く細い手首と胸のあたりまで伸びた薄茶色の癖のない髪が、光として私の角膜へ届き、視神経を通じて脳へと伝達すると、濃い匂いを伴うような強い印象として認識された。顔立ちや服装、背丈といった全体像を把握したのはその後だった。アジア系の若い女だった。直感的に日本人ではないだろうと思ったのは、近年の欧州で見かけるアジア系、正確には東アジア系の若者のほとんどが中国や台湾、韓国からの旅行者や学生で占められているからではなく、彼女の目鼻立ちに海を隔

Paris 7

 マーチンとどのようにして親しくなったのか、思い出そうとしても思い出すことができない。今はもうパリを去ってしまったバックパッカーの若者たちがまだヴィンテージ・パリのフロントで毎晩のように酒盛りをしていた頃、私もその中にいて、気がついたらレセプションの彼とも顔なじみになっていたのだろう。しかし、親しく言葉を交わすことになったきっかけ、というよりは理由のようなものは、はっきりとしている。彼も私も同い年の20代で、幼い頃からギターが好きで、そしてこれは彼の口からは一度も語られなかっ

Paris 6

 煙草を巻きながら螺旋階段を降りると、その先にある重厚なオートロックの扉のドアノブを塞がった両手のうちの片方の薬指と小指を使って捻り、そのまま体ごと寄りかかるようにして開いた。深夜のフロントロビーの静けさは、今しがた通ってきたばかりの通路となんら変わりはなかった。今夜は酒盛りをする宿泊客もいないのだろう。身体の奥底や神経の部分に疲労を覚えつつも深まる夜に微かな胸の高鳴りを感じ始めていた私は、それに果たしてホッとしたのか、残念に感じたのか、定かではない。無人のレセプション前を抜