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TX¥

 火曜日の午後三時、スーパーの店内は客もまばらで、五台あるレジは二台しか稼働していなかった。島村はそのうちの一台に立つ星野という女性を目当てにこの店に通っていた。彼はレジに星野がいることを確認してから店内を一周する。一週間分の食料を適当に選び、迷うことなく彼女のレジに並んだ。島村の順番が回ってくると、彼女は優しく微笑みながら丁寧にお辞儀をし、商品をスキャンしはじめた。
「いらっしゃいませ、今日はちょっと冷えますね」
 声をかけられた島村は、視線を星野の手から顔に移し、照れながら頭を軽く下げた。彼女の動きや表情の穏やかさ、柔らかな声のトーン、彼はその全てに惹かれていた。最後の商品がスキャンされ、ディスプレイに金額が表示される。
[TX¥5,653]
 星野が商品をスキャンしている間、島村は何度も話しかけようと思ったが、話題を探しているうちに彼女の作業は終わってしまった。
「ありがとう」
 島村はひと言だけ星野に伝え、後ろを並ぶ客から押し出されるようにレジを後にした。
 二〇三二年、世界から大幅に遅れて日本にもベーシックインカムの制度が導入されると、人々の生活は大幅に変わった。全国民の生活基盤を等しく保障するための給付に関する法律(通称『基盤インカム』)が施行されると、多くの人が仕事を辞め自由な時間を謳歌するようになった。ただ、基盤インカムがあるとはいえ、しばらくすると人々は時間を持て余すようになり、徐々にまた仕事に戻る人が増えていった。しかし、仕事はもはや生活資金を稼ぐためのものではなく、趣味や遊びに使うお金を稼ぐため、もしくは生活水準を上げるためのものになっていた。この新しい生活様式により、人間関係にも変化が生まれた。生活のために働く必要がなくなったことにより、慢性的な人手不足となり、職場内でのコミュニケーションや接客の質は徐々に悪化していった。スーパーのレジは全てセルフレジに置き換わり、人との直接的な接触はほとんどなくなった。多くの人はこの変化を受け入れていたが、他人との接点が希薄になっていく中で、人々は徐々に何か大切なものを失っていることに気づき始めていた。
 基盤インカムの導入から五年、感謝の気持ちが人間関係を良好にすることが研究で明らかになると、政府はこの研究成果を取り入れて大胆な政策を打ち出した。これまでの通貨の概念を根本から見直し、感謝の言葉を代替通貨とするシステムが開発された。通貨は円からTX¥(サンクス円)となり、商取引の対価として感謝の言葉を伝えているかどうかがチェックされた。支払いとして感謝の言葉を伝えた人は自らのTX¥が減り、一方で、感謝の言葉を伝えられた人はその分TX¥が増えた。人々の行動は常に監視され、感謝の言葉を伝えなかった場合はTX¥が大幅に減額されるペナルティを課せられた。この政策の実行により、有人レジが再導入されるスーパーも増えていった。感謝の言葉が商取引に用いられることで、人々は改めて人の温もりを実感するとともに人間関係も改善されていった。島村が通うスーパーも半年前にレジが再導入され、その時から星野はそこで働いていた。島村は彼女の顔を見るとなぜだか安心感を覚え、声をかけられると少しだけ気持ちが高揚した。星野がそれに気づいているのか島村にはわからなかったが、他の客に笑顔を見せることや、声をかけることはあまりないような気がしていた。そのことも彼がこの店に足繁く通う大きな理由のひとつだった。ある日、島村は勇気を出して星野を食事に誘ってみた。彼女の反応は、島村の予想に反して嬉しそうだったが、都合が悪いという理由で断られた。彼女の申し訳なさそうな顔に嘘は感じられず、島村はそれが口実ではなく本当に都合が悪いのだろうと思った。そして店を出るときには、また誘おうという気持ちになっていた。
 それから数日後の夜、島村は何気なくスーパーの近くを歩いていた。スーパーの裏手に差し掛かったとき、止まっているトラックの荷台で星野が横になっているのが見えた。彼は慌てて駆け寄り、声を掛けようとした。しかしその姿を見て彼はすぐに、彼女が人間ではなくアンドロイドだということに気がついた。氷のように冷たそうな肌は微かに光を反射し、よく見ると微細な結合部があった。電源の入っていない身体は硬直し、荷台の中で何かに引っかかっているのか、僅かに傾いたまま置かれていた。島村は混乱しながらしばらく星野の身体を眺めていたが、時間と共に混乱に変わってある種の納得感が込み上げてきた。なぜなら彼女が接客をするときの動きや顔の表情、声のトーンも、すべては島村の理想の女性像を反映したものだと気づいたからだった。星野は島村が来店する度に、アンドロイドとして彼の好みを学習していたのだ。
 次の週、島村はいつものようにスーパーに行き、星野のレジに並んだ。彼女はいつも通り、優しく微笑みながら商品をスキャンした。島村は彼女に向かって感謝の言葉を伝えTX¥を支払った。会計が終わると彼女が口を開いた。
「また誘ってくださいね。楽しみにしています」
 島村は少し戸惑いながらも頬を赤らめ、その顔を人に悟られないように頭を下げてレジを後にした。

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