父への詫び状
父は90歳で旅立った。3年前のことだ。
真面目で優しく、面倒見の良い性格。新し物好きで、町で1番最初に自動車を乗り回し、運転の仕方を教えて回っていたと父の古い友人に聞いたことがある。
父親っ子だった私には父の思い出やエピソードが山のようにあって、全て鮮明に記憶されている。
思い出話は、それを抱えている本人にしてみたら宝物のような存在だが、他人にとってはふーん、のひとつだ。
と、わかっていても、書き記したい事がある。
亡くなる4年ほど前、足を骨折したことをきっかけに父は入院することになった。
その数年前から認知症になり、ちょっとおかしい‥から大分おかしな事を言うようになってはいたが、家での生活は家族が手伝えばまだできる状態ではあった。
しかし、日中、1人で介護をしていた母親にしてみたら、歩く事もままならなくなった父親の面倒を見るのは、困難きわまりなかった。
入院は、父にとっても母にとってもやむを得ない選択だった。
頑固な父の性格と認知状態からすると、入院する事を受け入れ無いだろうとふんだ私と母は、入院する事を父には知らせずに病院へ連れて行った。
車椅子に乗せられ、そのまま病院に置いてこられた父。
夜、見舞いに行くとナースステーションの中で車椅子に乗ったまま顔を真っ赤にして怒っていた。スタッフさん達は忙しそうに動き回り、父は誰に向けるともなく怒っていた。
私の顔を見て迎えに来たと思った父は、満面の笑みで私の名を呼んだが、骨折している事を話し、入院して治療するから家には帰れない、と言うと何も言わなくなった。
その時、父がどれだけ理解したのかはわからない。
それからも仕事終わりに行ってみるとナースステーションで1人でぼやく父や、忘れ物をしたから家に帰りたい、と看護師さんに懇願している姿を度々目にした。
家から離れた生活は、心なしか認知症の進行を早めたような気がした。
病院では、認知症の患者さんでも自分でできることはできるだけ自分でやるという暗黙のルールがあった。
こぼしながらも夕食を食べているところを見守り、食後は食堂の隅の水道まで車椅子を押して行って歯磨きを手伝う。
父はコップを手に持ち水を口に含むと、ぶくぶくとうがいをした後、ごっくんと飲んでしまった。
「ベーだよ。べーって出して」
と言うと、
「ベー」
と、おうむ返ししてくる。
まったく、もう・・・!
そんなことさえ出来なくなったのか、と情けない気持ちでいると
父はコップに残った水を静かに、丁寧に、少しづつ、洗面台ボウルの隅から回し入れるように流した。
自分が汚した洗面台ボウルの汚れを洗い流していたのだ。
私は胸が苦しくなる思いがした。
「お父さん・・・! また汚してる」。
思春期真っ只中の高校生の娘達に父は、汚いとか汚しているとかの文句を言われることがしょっちゅうだった。
いつの時代もお父さんは言われなきことで責められる。
その度に父は
「汚くないよ。ちゃんと綺麗にしてるじゃねえか」
と、切なそうに呟いた。
娘達はそんな父の言葉には耳も傾けず、お父さんは汚い、という謎の定説を持ち続けた。
認知症が進み、ぶくぶくベーができなくなっても、自分の汚した場所は自分で綺麗にしようとした父。おそらく、娘達が知らなかっただけで、父はずっと昔からそうしていたに違いない。
「汚くないよ。ちゃんと綺麗にしてる・・・」
父のその言葉は本当だった。
娘達に汚いと言われ続け、父はきっと寂しく、切なく、プライドも傷ついたことだろう。
「ごめんよ、お父さん」。
今でも歯を磨くたびに、コップに残った水を捨てるたびに、車椅子の後ろから見た父の姿を思い出す。半ば強引に入院させたこと、家に帰せなかったこと、父の本当を知らずに過ごしたこと・・・、申し訳なさと後悔と、郷愁やら追憶やらの様々な思いに胸が苦しくなる。
向田邦子さんの「父の詫び状」を見たとき、私はてっきり父親が娘に謝る詫び状かと勘違いした。読んでみて全く違うことはわかったが、父を亡くしてからやたらと父に詫びたいことばかりが思い浮かんできて「父への詫び状」を書いている。
偉大な向田さんの名著をもじってしまって申し訳ないのだが、私のはまさに詫び状そのままだ。書いても書いても、終わらない詫び状なのだ。
拙い文を読んでいただき、ありがとうございます。
画像は田中もちもちさまよりお借りしました。 ありがとうございます。
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