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創作大賞「ドラゴン・シード」#19

19話

 母のソフィに関するフレーネの最後の記憶は、まるで奇妙な果実みたいだというものだった。七歳の時のことだ。
 小さな鉱山街の場末の娼婦だった母は、粗悪なドラッグと酒でラリったよそ者の客に、めちゃくちゃに殴り殺された。棺の中で白い包帯からわずかにのぞいた頬や目元は、元がわからなくなるほど赤黒く腫れ上がっていた。
 そして、娼館で女房に客を取らせていたフレーネの父親は、飲んだくれのろくでなしで、フレーネはこの男がいやでいやで仕方なかった。何かというと、おまえなんか俺の子どもじゃねえと言ってはフレーネを邪険にした。何日もろくに食べさせてもらえない日もあった。
 ところが、フレーネはその男と三年一緒に暮らし、十歳の時にこの世には親と暮らさなくていい夢のような『シセツ』というものがあるのだと知ったとき、十分我慢したのだからもういいだろうと思って殺した。子供時代の三年は大人と違って大きい。それに、そのぐらいになると子供でもずいぶんできることが多くなる。
 父殺しは簡単だった。昔の魔石の採石場で遊んでいて、とても珍しい魔石を見つけたので一緒に来て欲しいというと、鉱夫だった父親は何の疑いもなく上機嫌でホイホイついてきた。あとは深い縦穴に後ろから突き落とすだけだ。あっけないほど簡単だった。
 フレーネはそのあとすぐに念願の養護施設で暮らすことになったが、ここは天国だと思った。母親はフレーネを可愛がってくれたけれど、その母親が生きていた頃よりもマシだったかもしれない。ここでは三食ご飯がちゃんと食べられて、隙間風の吹き込まない寝床があったからだ。
 二年ほど楽しく暮らしていた時に、フレーネに魔術士の声があることがわかると、その後すぐ、町にいる唯一の老魔術師の元で住み込みの修行をすることになった。
 師匠の老魔術師はすでに亜種討伐の前線を引退し、この街で道具屋を営み、魔法薬を売って暮らしている。
 そこにはフレーネの他にも何人か通いの子供がいて、フレーネは一年先輩の赤毛のリゼとすぐ仲良しになった。リゼも住み込みだったのだ。彼女もフレーネと同じような孤児で、両親を採石場の落盤事故で揃って亡くしていた。
 魔術士の中でもエリートと呼ばれる、亜種討伐の傭兵チームに入るならば、炎や氷を操れる放出系魔法が重宝されたが、フレーネは癒し系や防御、封印魔法に能力を発揮した。亜種討伐の現場に出るなら救護班というところだろうか。初めて人に褒められた。
 そんな時、親友のリゼが突然自ら命を絶った。裏庭の納戸で首を吊っていたのを見つけたのはフレーネだった。リゼは十八歳になったばかりだった。
 魔術士として落ちこぼれだったリゼは、それを苦にしての自殺だろうと皆は口々に言ったが、フレーネはリゼの死の真相を知っていた。リゼが秘密の引き出しに日記を隠していたことを知っていて、それをリゼの死後読んだのだ。
 おそらく、フレーネが知っていることをリゼも知っていたと思う。その日記をそこに遺してリゼが逝ったのなら、それはきっとフレーネに秘密を託したのだと思った。
 そこには、リゼが生前、どれほど苦しんでいたかが切々と綴られていた。そして、死の数日前の最後の書き込みには、彼女が妊娠していたことも告白されていた。
 相手はあろうことか師匠の老魔術師だった。善良そうな顔をして、あの老人は三年も前から、まだ十五にもならない少女を弄んでいたのだ。
 フレーネは親友の苦しみに気づいてやれなかった。てっきり、リゼは老師の部屋で毎晩、魔法の特別授業を受けているものだと思っていた。みんなが才能があると言ってくれるフレーネには必要のない授業。
 正直に言えば、ちょっぴり優越感に浸っていたのだ。そんなふうに思っているのが少し後ろめたくて、リゼが暗い目をして部屋に帰ってきても何も聞かずにいた。そのことが、リゼをますます追い詰めたに違いない。
「フレーネや、お前は癒し系の魔法が得意だし、魔法薬を作るのも上手い。魔術士だからと言って、なにもみんながみんな、亜種討伐に行かなければならないということはない。私のように、魔法道具を売って生きて行く道もある。おまえには、私のこの店をやろう。リゼも死んでしまったことだし、だから、ずっとそばにいておくれ」
 一見、愛弟子を亡くした深い嘆きに心を痛めているように見せて、この醜い老人は次のターゲットをフレーネと定めたのだ。
 心底寒気がした。でもこれは、フレーネが親友の苦しみに長いこと気づいてやれなかった罰でもあるのだと思って諦めた。
 だが、そんなフレーネには誰にも内緒のとっておきの秘密があった。
 苦労ばかりが多かった母親に、もし私に何かあったら、お母さんの言う秘密の隠れ家に行けば神様がいるから何も心配することはないと、何かと言わていたのだ。
「ただし、このことは絶対に誰にも秘密だよ? じゃなければ、神様は姿をお隠しになってしまうからね?」
 フレーネが母のこの言葉を不意に思い出したのは、初めて老師の寝室に呼ばれた日だった。みんなが寝静まった真夜中、記憶を頼りに母の秘密の場所にたどり着き、驚くような母の秘密を知った。
 それは不思議な存在感を放ってフレーネを圧倒し、かつてない安らぎをくれた。
 その日から度々そこを訪れては、嫌な臭いのする老人のおぞましい行為に耐えた。
 そして、どうやってこの老いぼれを殺してやろうかと考えた。フレーネにはなにしろ、神様がついているのだからもう何も怖くない。

 そんなある日、フレーネが神様の匂いを放っていることに気づいた老師は、フレーネのピアスに気づいた。神様の石をほんのちょっぴり使って自分で作ったピアスだった。どこでこれを手に入れたのかとしつこく聞かれた。ただならぬその様子に、たまたま河原に落ちていた石で作ったピアスだととっさに嘘をついた。
 老師はそこへ連れて行けとしつこく食い下がった。
 その日はもう遅いし暗いので明日でいいですかと断って、早々に部屋に戻り、夜中にこっそり抜け出して秘密の場所へ行き、龍涎香のわずかなカケラを持って昼間口にした嘘の場所に適当に転がしておいた。
 老師は小石ほどの血のような深紅の石を見つけて大喜びすると、まず火の魔法で石をとことん焼くと、入念に細かく砕いて粉にした。びっくりして、なぜそんなことをするのかと聞くと、老師は、理由は知らないが龍涎香は昔からこうする決まりだと言った。そしてそれで、呆れるほど高価な魔法薬を次々に作って売り出した。それはあっという間に売れてしまった。
 匂いが移るので、それを封印する魔法を覚えるまで秘密の場所にはおいそれとは近づけなくなったが、フレーネはその日から龍涎香を念入りに調べた。そして間もなく、深紅の石の中で丸まる紅いドラゴンワームを発見した。
 あの老師も知らなかったのだから、龍涎香は知っていても、この虫の存在を知るものがこの世に果たして何人いるか疑問だ。
 龍涎香とともに、フレーネはこの虫の研究にも没頭した。老師があれほど念入りに石を焼いて粉にしたということは、この虫は危険なのかもしれない。だが、こんな石の中に大昔に閉じ込められているのだから、もうとっくに死んでいるに違いない。老師は形骸化した昔の風習を倣っているだけなのだろうと思った。
 そんなある日、媚薬を作ろうとして龍涎香を焼いて粉にせず、何気なく直接石の塊に血液を垂らして魔法を歌おうとして、生きたドラゴンワームが石の中から顔を出したのに気づいた。次々ににょろにょろと石から出てくるワームは、フレーネのわずかな血液の中で悦びにのたうっているように見えた。恐る恐る指先を伸ばすと、ワームは吸いつくようにフレーネの指先に溶け込んで消えた。驚いて慌てて手を洗ったが、その後何も起きない。ヒトには無害な虫なのかもしれないと、それきりドラゴンワームに興味を失いかけたころ、鉱石オタクのモリソンに出会った。龍涎香入りの媚薬の魔法薬を求めて、老師の店にやってきたのだ。老師がほんの微細な欠片を法外な値段で売りつけるのを見て、改めて母も知らなかった龍涎香の価値に気づいた。
 フレーネは老師に黙って、モリソンに龍涎香を格安で横流しした。老師から逃げるための資金が欲しかったのだ。
 この頃には、ドラゴンワームは、生き物の唾液や血液に触れたり、一定時間以上素肌に触れたまま体温に温められると、石の中から顔を出し、触れているフレーネの体内に溶け込んでしまうことがわかっていた。そうならないよう、その後すぐビニールの手袋をつけるようになったせいか、身体はなんともない。少しなら平気なのだろう。
 そんなとき、初めて老師の男を知った。それまで、もっぱら捕縛魔法と奇妙なグッズでフレーネを弄んでいた老人は、やっと己の身体が思うように反応したらしい。
 だが、それが老人の命運の尽きる時だった。フレーネの身体の中には、ドラゴンワームがしっかり巣食っていたのだ。
 老いた体に虫の寄生はよほど負担が大きかったのか、老師は翌朝すぐ死んだ。この時のフレーネは、老人の死にドラゴンワームが関係しているとは気づいていなかったが、トイレの便器に顔を突っ込んだまま絶命しているのを見て、腹がよじれるほど笑った。こんなに笑ったのは久しぶりだった。
 ――リゼ見てる? このジジイ、自分のクソの中に顔を突っ込んで死んじゃったんだよ。こいつにぴったりの死に様だと思わない?
「フレーネ!」
 カーラさんだ。
 近所に住む私たちのお世話をしてくれる優しいひと。ふっくらと丸くて柔らかくておしゃべりで、小さな双子のきょうだいのお母さん。この人の作るシフォンケーキが大好き。ジジイが死んでるの見て笑ってるところを見られてしまった。ああ、嫌われちゃうな――と思ったらぎゅっと抱きしめられて、ホッとした途端にそのあとの記憶が飛んだ。
 老師は本当に、フレーネに家と店を遺していた。 
 それを元に、第ニセクターで商売を始めたころ、フラワー通りを中心に人が大勢死んでいるのに気づいた。モリソンに売りつけた龍涎香の関連性に気づき、自分以外の人間の体内にドラゴンワームが入るとどうなるかをまざまざと思い知った。愕然としたが、事態はすでに取り返しがつかないところまで来ていた。
 だが、フレーネはあまり気にしなかった。虫たちはなぜか男を好んだ。いや、フレーネと同じように嫌ったのかもしれない。男に食い物にされ続け、最後は奇妙な果実のようになって死んだ母にぴったりの虫だと思った。今度は母の神様が男を食らう番なのだ。
 フレーネはこの頃には、なんでもない宝石や天然石にドラゴンワームを仕込むことも覚えた。
 そんなある日、フレーネのところへ魔石協会の顧問であるスミスが現れた。
「おまえが在処を知っている龍涎香を全て差し出せば、師匠殺しを黙っていてやろう」
 どうやら老師は、酒の席でスミスに龍涎香の秘密をうっかり漏らしていたらしい。そして彼は、フレーネがまだどこかに龍涎香を隠し持ち、それを横取りされる前に老師を毒殺したと思い込んでいたのだ。まぁ、当たらずといえども遠からずだ。
 スミスはしばらくわざと生かしておいた。高価で貴重な龍涎香を安全に捌き、大金を手にするには、小娘のフレーネよりスミスの立場と肩書きが何かと便利だったのだ。
 彼は魔石協会の顧問であり、鉱山の持ち主でもあったが、もともと二束三文だった自分の土地に開いたチューブのおかげで、ある日突然鉱山主になったただの成金だ。魔石や鉱山について詳しいわけでもなく、それを機に学ぼうという気すらないただのクズ。立場にものを言わせて女をはべらせ、金をばらまくしか能のない男だった。しかも、鉱山はすでに枯渇しかかっている。最後に一発逆転の大儲けにありつこうとして、フレーネに近づいたというわけだ。フレーネへの報酬はごくわずかだった。
 フレーネは、日ごろの感謝のしるしだと言って、スミスにとっておきのアクセサリーをプレゼントした。デザインはモリソンに頼んだ。格安で貴重な龍涎香を分けてくれるフレーネのために、彼は何も知らずにドラゴンワーム入りの男性用の指輪を作ってくれた。ちなみに、モリソンには最後までドラゴンワームの存在をひた隠しに隠していた。どうせすぐ死ぬのだから。
 スミスはフレーネの出すものはグラスの水一杯口をつけようとしなかったが、アクセサリーは盲点だったのだろう。それを嬉々としてつけ始めて一週間後に死んだ。
 ところが、その指輪が、美しいあの女・・・を招きよせることになったのは計算違いだった。

 赤く塗られた扉や柱に、くすんだ緑の壁。独特な幾何学模様のレリーフが施されたナイチンゲールは、白い小鳥が飛び交う不思議な娼館だった。故郷の娼館とはまるで違う華やかで豪華で隠微な世界が広がっていた。
 その一室で、美しいドレスを身に纏った紫の瞳を持つイヴを初めて見たとき、フレーネはどういうわけか畏れで身が竦んだ。彼女が持つ何かに圧倒されてしまうのだ。イヴは特別フレーネに高圧的だったわけでも、意地悪だったわけでもなく、むしろ微笑みで迎えてくれたのに。
 たぶん彼女は、フレーネの神様がいる世界の住人でも、この世界の住人でもない異邦人だと本能的に悟った。
 そして、彼女はフレーネをひと目見るなり、少し首を傾げて不思議そうな顔をした。
「あら……やだあなた、へえ……」
 ソファから優雅に立ち上がりこちらにくると、フレーネの周囲をゆっくり巡りながら、上から下までまじまじと観察された。身体の中まで見透かされているような気がした。
「あ、あの……」
「ふふ、フレーネといったかしら? あなたがあたしのお気に入りのMに龍涎香を売っているというのを聞いて来てもらったの。わざわざ呼びつけてごめんなさいね」
「い、いえ……」
「鉱物オタクの彼に、むかーし手に入れた龍涎香の欠片を最初にあげたのは私なんだけど、あの下品なドラゴンワームは抜いてあったのよ。だから困るわ。あんな龍涎香を与えてもらっちゃ。でも……それもしょうがないのかしら……」
「え……?」
「マム……」
 ヤンという優雅な秘書が穏やかにイヴをたしなめている。
「田舎の魔術士崩れの小娘が、知らずにあれを扱っているのかと思ったけど……」
 言いながら、イヴはフレーネの髪を撫で、頬に触れて瞳を覗き込む。 「……っ」
 フレーネはなぜか動けない。
「ヤン、この子、うちで引き取れないかしら?」
「……は?」
 ヤンが主人の突然の申し出に戸惑っている。
「ねえ、あなた、フレーネ、うちに来ない?」
「え……?」
「ああ、何もお客を取れと言ってるわけじゃないの。あなたはここで好きにしていていいのよ。ね、ヤン?」
「……は、それはどうでしょうか」
「やだ、あなたヤキモチ妬いてるの? ふふ……」
「まさか……」
 ヤンの笑顔が引きつっている。
 だがフレーネには、ヤン以上にイヴが何を言っているのかさっぱりわからなかった。
「マム、そろそろそのお嬢さんを解放して差し上げないと……」
「あら、ごめんなさい。あたしったらつい興奮しちゃって……」
「……いえ」
「でも、これからもあなたのここへの出入りは許可するわ。ただし、うちに卸す商品にドラゴンワームを仕込むのはなしよ? 私の目は誤魔化せないわ。というよりもフレーネ、このままあの妖しい石に触れ続けたら、あなたの中で今までおとなしく眠っていたものが目を醒ますわ」
 ――このひとは知っている?
 イヴがいきなり、服の上からフレーネの腹の痣を視えているかのように指先で撫で、紫の瞳がフレーネを試すように下から見上げる。
 その瞬間、フレーネの身体の真ん中で、赤い痣が激しくうねった気がした。
「うっ……」
「もう変化は始まっている」
「……っ!」
 イヴは何もかもお見通しだ。フレーネは背中に冷や水を浴びせられた気分になった。このひとの側で暮らすなど、考えただけで震える。おぞましいからなのか、強烈に惹かれるからなのか、自分でもよくわからなかった。
 イヴは優美に微笑んでいる。
「いい?」
「は、はい……」
「いい子ね。気が向いたらいつでも来てちょうだい」
 それだけでナイチンゲールを帰された。
 以来イヴは、しょっちゅうフレーネから様々なものを買い付けてくれた。色々なところへも紹介してくれた。龍涎香の扱いは様々な意味で慎重さを要したので、この得意先はずいぶんフレーネを助けてくれた。
 フレーネは言われた通り、イヴ関連の業者や女たちに売る石にドラゴンワームを仕込まなかったが、それでも、巡り巡って石は客や女たちの間を行き来した。イヴもそれをわかっていたと思う。だがイヴはあれ以来、一度もフレーネを咎めなかった。
 そして、不思議とナイチンゲールの客や従業員から死人は出なかった。スミスを始めとする三人だけだ。
 そんなある日、ヤンの事務室に呼ばれた。
「フレーネ、まだ虫を仕込むことを辞めていないね?」
「で、でも、この店のものには……」
「巡り巡って同じことだ。わかっているね?」
「……」
「あの方は、それでも君を見守るという。でも、この周辺で大勢の人間が死んでいる。人間は不自然な死に敏感だ。躍起になってこの死の真相を解明しようとするだろう。そうすれば、周囲がにわかにきな臭くなる。マムがどう言おうが、私はあの方を危険に晒すわけにはいかない……」
 そういって、ヤンはスッとフレーネに近づくと、手に持っていたナイフで一片の躊躇いもなくフレーネを刺した。
「……っ⁉」
「君の存在は危険なんだ。すまないね、フレーネ」
 フレーネは自分の腹のど真ん中に、根元まで埋まったナイフの熱さに思わず息を飲んだ。そして、その中心から捩れるように、自分の中身が全てそこに吸い込まれるような衝撃で息ができない。
 反射的にヤンの腕を掴むと、うめき声が漏れたのはヤンの口からだった。 「うあああ……」
 フレーネの手がヤンの腕に張り付いたように吸い付き、手が溶けたようにヤンの肌に絡みついていた。そこから大量にヤンの中の何かがフレーネに向かって流れ込んでくるのがわかった。
 腹にめり込んでいるナイフが押し返され、やがてそこから押し出されると、ナイフはカランという音を立てて床に落ちた。
 腹に開いた赤い傷口は、プチプチザワザワという音を立てながら塞がってゆく。
 そしてその間も、ヤンのなにかはフレーネを満たしてゆくのだ。フレーネの手はまだヤンの腕に溶け込んでいた。
「なにこれ……? なんで? なにこれ……」
「ああぁぁ……‼」
 ヤンの顔にみるみるシワが刻まれてゆく。皮膚は水分を失って干からび、とうとう倒れてしまった。その拍子に、ヤンに溶け込んでいた手がブチブチと千切れてうねりながら元に戻った。
 すっかり傷が癒えたフレーネは、恐ろしくなって急いでその場を逃げ出した。
 裏口から外に飛び出した時、ケイトにバッタリ出くわした。
 激しい恐怖と混乱で半ばパニックをおこしていたフレーネは、思わずその首にしがみついた。
「わ、あはは……」
 フレーネに突然抱きつかれて、ケイトが驚いて笑い声を上げている。その優しい笑い声に救われた。
 ――ケイト、ケイト、なんの見返りもなく私を恐ろしい亜種から救ってくれた強いひと。私の親友と同じ目と髪の美しくて優しいひと。そして、私と同じように呪の魔法がかけられているこの世で唯一の仲間。
 フレーネはケイトの魔法の詳しい経緯を知らない。でもあれが、『しゅ』だということだけはわかる。
 助けてという言葉を飲み込みながら、フレーネはケイトと短い会話を交わすことで、やっと平常心を取り戻した。
 女性には優しいフレーネの虫たちが、ケイトを悪い男から守ってくれるよう出会って早々に彼女には虫を仕込んだピアスをプレゼントした。もしかしたら、ケイトなら私と同じように、虫たちと共存していけるかもしれない。そしたら私たちは、この世で唯一の本当の姉妹になれる。
 そして邪魔で油断のならないジンには、イヤーカフを持たせることに成功した。遠からず、私の虫たちに食い尽くされるだろう。

◇ ◇ ◇ ◇

 フレーネは今、自分の棲み家で眠っている。
 ケイトの廃倉庫のテントを真似て、長い布を張り巡らせて遊牧民のようなテントに仕立てたのだ。LEDランタンをいくつか持ち込んでいるから、薄暗いけれど辺りの様子はよく見える。
 昨日、イヴから奇跡的に逃げ出し、老師の家の秘密の引き出しにリゼの日記を戻してきた。もう書かれることのない後半の白紙のページに、フレーネの秘密も書いておいた。だからずっとリゼと一緒だ。秘密はみんな、あの家と一緒に朽ちていけばいい。
 ――ああ、眠い。
 このところ、なぜかトロトロと眠ってばかりだ。いくら眠っても寝たりない。
 ナイチンゲールのヤンから精気を吸い取って以来、なんだか身体の調子がますますおかしい。お腹の痣がどんどん広がり、固く盛り上がって鱗のようになっている。
 自分ももうじき死ぬのだろうか。
 そしたら、リゼやお母さんに会えるだろうか。
 それとも、お父さんやスミスや老師が、私が来るのを待ち構えているかもしれない。
 それならそれで仕方ない。
 いつも生きるために必死だった。
 でもそれって、なんのためなんだろう。
 もういいよね。疲れちゃった――。

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