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草むしり


 暑い日が増えてきた。毎年この時期になると庭に雑草が生い茂る。

僕は草むしりが嫌いだ。それは面倒だからではない。

名のある花は植えて愛でるのに、雑草はいつも邪魔者扱いされる。同じ植物なのに雑草は当たり前の様に抜いてしまう感覚が僕にはわからなかった。

数年前から実家に帰ってきて、庭の草むしりは僕の仕事になった。

最初の頃は無邪気に伸びる雑草を抜くのが申し訳なくて心の中で謝りながら抜いていた。そして何のためにやっているのか意味を見出せない虚無感に苛まれながら抜いていた。

しかし、いつしか僕は変わっていた。

仕事の忙しさに追われ、季節によっては一面に生い茂る雑草をひたすら抜く中で、それは何の感情も起きないただの作業と化していた。

かつては心を傷めていた事に何の感情もなくなっている自分に気付いた時、僕は背筋が凍る思いがした。

ナチスドイツがユダヤ人を虐殺する時、多くの場合は人種への恨みで残虐な殺し方をするのではなく、効率化を求めるためシステマティックに殺していたという。

またアメリカ開拓の時にネイティブアメリカンを駆逐していく事は「cleaning(掃除)」と呼ばれたそうだ。

草むしりに慣れてしまった様に、時代や環境さえ整えば、システマティックにゴミを掃除するかの様に人を殺す事にも僕は慣れてしまえるのだろう。

なんて恐ろしい生き物なんだろう

そう思いながら僕は今日も草むしりをする。

しかし雑草の根元へ振り下ろす鎌に、少しの躊躇が生まれた。

その躊躇う一瞬を忘れない様に生きるのが人間である事なのかもしれない

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