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「利他」と「支配」
ぼくには認知症の祖母がいる。
認知症の人の言動はひとそれぞれだが僕の祖母は放心状態になることが多い。何かしようとしている祖母に「なにがしたいの?」と聴いても、困った表情をして「うん、よくわからない」と答えることが多い。
よくコーヒーを飲む祖母だがポットにお湯が入っていることを認識できない時があるようで、自分でお湯を沸かすことがある。しかいこれが危ない。
お湯を沸かしているのを待っている間に、そのことを忘れてその場を去ってしまうことがある。
そんなことがあってから台所の手の届くところにはやかんを置かない様にしている。家族や本人のことを考えれば、これはやむを得ない対処かもしれない。しかし、それが行きすぎれば「支配」へと向かう。
「段差があるところは危ないから、おばあちゃんが通れないようにしておこう」
「お皿を上手に洗えないから、代わりにやってあげよう」
「家に届いた手紙を失くされたら困るから、目の届かないところに隠しておこう」
祖母の為だと思っていたが、いつの間にか迷惑を被らないようにと行動している自分に気づいた。
「けがをされたらこっちが困る」
「どうせお皿を洗いなおすのは俺なんだから」
「もう手紙読んだってすぐ忘れちゃうんだから見なくていいだろ」
「誰かの為に」という利他的な行動の裏に「自分の思い通りに」という支配が隠れている。
誰かの為に生きることの難しさと、自分の為なら他人をも支配する強欲さ
自分の抱えるそんな無慈悲さなんかすぐ忘れて、今日も祖母の一挙手一投足に睨みを利かせる。
いつも大切なことを忘れているのは僕の方なんだろう
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