小説ですわよ第3部ですわよ2-3
※↑のつづきです。
綾子は、後に森川イチコを名乗ることになる女を引き起こし、砂糖水が並なみなみと注がれたバケツにその顔を突っ込む。乾き切り、青ざめた肌が沈んでいく。
「んぐんぐ……」
女は本能的に、砂糖水を勢いよく喉に流しこみ始める。最初こそ『飲みこんで』いたが、徐々にバキュームカーのごとく『吸引』し始める。
「カポッ……ジュポポポポポポポポポポ!!」
下品な音を立てながら、1分も経たぬうちバケツの砂糖水は底をついた。イチコの目は生気で光っていたが、まだ肌の調子は悪そうだ。カウンター席に座る綾子が、隣の席へイチコを手招きする。
「座って、お腹いっぱい食べなさい」
「ぶもーっ!」
人ならざる鼻息を鳴らし、カウンター席につくイチコ。すかさずカレーが配膳される。ゆで卵、スクランブルエッグ、ほうれん草、エビフライ、トンカツ、ウインナー、茹で鶏。綾子が頼んだ通りトッピング全盛りで、さらには女主人の計らいでライスとルーは大盛りの豪華仕様となっていた。
「たべていい?」
「ええ。その前に『いただきます』を言うのよ」
綾子は、人間の言葉を覚えたての生命体に地球の文化を教えるつもりで接した。
「いただきます!」
「よろしい。好きなだけ食べなさい」
綾子が顎をしゃくって促すやいなや、イチコはスプーンでカレーをがっつき始めた。
「うまい、うまいっ!」
「よかったわね。ここのカレーは絶品なのよ」
「ぜっぴん!」
「世界で一番美味しいということ」
「せかいでいちばん……おいしい!」
綾子がカウンター奥を見やると、女主人が振り返って上機嫌そうに口の端を曲げた。イチコは口の周りを茶色に染めながら、カレーをたいらげていく。すでに半分以上が彼女の胃に流れていた。
(この子、返送者でしょうね……直接会ったのは久々だわ)
綾子はイチコの食べっぷりを慣れた様子で見守る。異世界に転生あるいは転移した者が、この世界に返送されることは、綾子にとって珍しいことではなかった。
綾子がカーミラであったころ、すなわちこの世界に吸血鬼しかいなかった時代。『アヌスのこすり合い』と呼ばれる、異世界同士の接触が起き、神々の腸と呼ばれるゲートを通って現れたのが、現在この世界を支配する人間の祖先だ。
人間は力も寿命も、吸血鬼より遥かに劣っている。しかし特異な性質があった。死後、その存在の核となる概念――魂が異世界で新たに受肉し、この世界に帰還するケースがままあった。人類の間では死者がよみがえったとか、死者を騙る者が出たとか、そんな恐怖譚で済まされていた。しかし綾子が記憶を探る魔法を会得したことにより、人間は異世界転生する性質を持つとわかった(人間以外の生物も異世界転生し、返送されるケースが稀にある。その例がビーバー店長だ)。
そして異世界転生と返送が発生する数は、人間の歴史と密接にリンクしている。つまりは社会不安による大量の死者の発生だ。政治の混乱、疫病、金融恐慌、戦争。原因は数あれど、世が乱れたとき、返送者の数は激増する。
原因までは定かでないが、綾子は『より多くの者が世界に不満を持つほど、この世界と異世界の繋がりが強くなるのではないか』と考えていた。
そんなわけで、今このときに返送者が現れるのは非常に珍しい。なぜなら少なくとも綾子が住む日本では、将来への希望に満ちていた。オリンピックを誘致できるほど、この国は復興し、さらに発展していくのだと。
それゆえに綾子は、今このとき返送されてきた者に興味が湧いた。数少ない例外か、あるいは……
「ねぇ貴方、名前は?」
「モシャモシャ……わかんない!」
「そう。この店にくるまでのことは覚えてる?」
「ガツガツ……わかんない!」
「なにか特別な特技とかはない?」
「ムシャムシャ……たくさん食べることかな!」
ものの5分で、イチコはカレーを完食してしまった。
「おいしかったーっ!」
「こういうときは感謝をこめて『ごちそうさまでした』というのよ」
「なるほどー、ごちそうさまでした!」
イチコは綾子の日本語に淀みなく応える。見た目を含めて日本人である可能性が高い。イチコの肌はテカテカになり、瞳はキラキラと光っていた。その姿を横目で見て、イエローの女主人は満足げに「あいよ」と呟く。
さて、肝心なのはイチコをどうするかだ。返送者を放ったらかしにしておくと、悪意の有無に関係なくトラブルが起こるのは間違いない。ウラシマにとりこまれて犯罪に巻き込まれる恐れもある。
「あなた、これからどうするの!」
「うーん、どうしよっかな! 食べさせてくれたお礼はするよ」
満腹のイチコはその充実度を現すように、両腕を天につきあげて伸びをする。と、黒ジャージの背中から、紫色の棒状の物体がこぼれ落ちた。飲食店には相応しくない、女性を悦ばせるための道具であった。
「ちょっと! あんた、なんてものを!」
綾子が紫棒を拾うのを、イチコは呑気に笑顔で見ていた。
「なんじゃそりゃ、わかんない。ハッハッハ!」
豪快にイチコが笑う(このときはまだ、テレビディレクターのような笑い方ではなかった)。だが綾子は紫棒の柄に”あるもの”を見つけていた。
「森川……イチコ?」
「だれそれ?」
紫棒の柄に縦長の白いシールが貼ってあり、かすれたマジックペンで『森川イチコ』と書かれていたのだ。
「貴方の名前なんじゃない?」
綾子はシールの部分を見せつけるように、紫棒をイチコに渡す。女主人が「メシ屋でそんなもん出すな」と一瞬鋭く睨みつけてきた。
「どうだろ? そうかもね」
イチコはあっけらかんと答える。
「わかった。ひとまず貴方の名前を森川イチコとして、加護を与える」
「んん?」
綾子は宙に指を滑らせ、魔法陣のような形をなぞる。それで見た目にわかる変化が起こるわけではない。だが綾子は満足していた。名前もわからぬ返送者がうろついては問題を起こすし、問題に巻き込まれる。特にウラシマは綾子と同等以上の魔法を有する“王”がおり、イチコに干渉してくる危険がある。綾子は、イチコを制御して加護を与えるための魔法をイチコに施したのだった。
「これで貴方は、当面のあいだ森川イチコ」
「森川イチコ……森川イチコかあ! うん、悪くないね!」
「しばらく、私のもとで暮らして、働く気はない?」
「あ、うん。カレーの恩義があるし」
イチコはケラケラと笑い、綾子に握手を求める。綾子が手を握り返すと、イチコは吸血鬼のような犬歯を見せた。
「お世話になります、姐さん!」
「極道の妻みたいな言い方やめなさい!」
「ワッハッハッハ!」
今とは違う、でも本質は同じ笑い方でイチコは綾子と固い握手を交わした。
「そんなことがあったんですか」
舞がソファにもたれかかる。革性のカバーがギュッと音を立てた。
「問題はそこからよ」
綾子は両手の指と指を組み、伏目がちに言った。舞には祈りか懺悔に見えた。
「私とイチコは探偵家業をやりながら、ウラシマの犯罪に対抗しようとした。そのための仲間を集めたの」
「それが軍団さんたちなんですか?」
珊瑚がメガネのポジションを整えながら聞く。が、綾子は首を横に振った。
「今の軍団じゃないわ。先代よ」
「先代の無職集団がいたんですか!?」
「ええ……」
綾子のこめかみから、滝のような汗が流れ落ちる。
「私とイチコ、先代の軍団はウラシマを潰すべく戦った。でもそのとき……軍団は全滅した」
「えっ!?」舞と珊瑚が同時に身を乗り出す。
「巻きこんでしまった……守ってあげられなかった……」
綾子の声が上ずり、感情をどうにか抑えようとしながら言葉を紡ぐ。
「ちゃんと話しておくわ。忘れないためにも。今は欠番となっている軍団のオレンジ……七宝さん、あなたの先輩にあたる人物を」
つづく。