見出し画像

小説ですわよ第3部ですわよ2-2

※↑の続きです。

「イチコの記憶と、真の名前を返す」
 おっちゃんが提示した条件に、イチコは目を見開いたまま固まる。そしておそるおそる、おっちゃんに視線を移す。
「……マジでございますか?」なぜか敬語だ。
「俺がイチコちゃんに嘘ついたことあるかい? ブチ殺すぞ」
(今さっき、身分を偽造して依頼してきただろ! ブチ殺すぞ)
 舞はツッコミを心の中に留めた。ここで余計なことを言えば、イチコの記憶と本名を知るチャンスが水の泡になる。
 おっちゃんは、地面に落ちたイチコのタバコの灰をひろって、携帯灰皿の中に入れた(偉い)。
「王は呪術的な何かしらの力で、イチコちゃんの素性に関わる情報を封印した。それは物理的な形で、ウラシマの金庫に保管されてる。今、教えられるのはここまでだ」
 おっちゃんは立ち上がって何度か腰を反り、タバコとライターを腹巻の中に押しこむ。
「とりあえず今日は最初の顔合わせってことで。依頼を受けるかは近い方がいいな。まあ週明けくらいにでも」
「……うん、わかった」
 おっちゃんは、カラリコロリと一本歯の下駄を心地よさそうに鳴らしながら、ガニ股で停めてあるトラックまで歩いて行った。

 イチコは微動だにせず、ほとんどが闇に染まった夕方の虚空を、ただただ見つめている。
 舞は空いたベンチの隣に座ろうとしたが、その前にイチコがゆっくり立った。
「事務所に帰って、姐さんに報告しよう」
「ですね。どうするかを考えるかは、社長との話次第で」
 舞とイチコは頷き合い、待機しているピンキーへ引き返す。
 事務所へ戻る途中、再生が中断されていた『落陽』の続きから始まり、吉田拓郎のメドレーが車内に流れていた。

「ただいま帰りました~」
 18:30。舞たちが、事務所のメインフロアである2階のドアを開ける。出入りを知らせる鈴が鳴った。いつも通り迎えてくれたのは燕尾服の老執事・岸田。それともうひとり、オレンジのジャージの女子高生。17時の上がり時間を過ぎた珊瑚だった。
「あ、お帰りなさい」
 珊瑚は誰も使っていない事務所の応接スペースのテーブルに参考書とノートを広げて勉強していたのだろう。傍らには岸田が淹れたインスタントコーヒーが、白いカップの中で冷めている。
「おっ、七宝さん。今日も精が出るね~」
 イチコがキッチンで手を洗いながら話しかけた。珊瑚は今年の春で高校三年生。来年は受験だ。経済的な理由で塾に通うのは難しく、自主的な学習が主だという。だがバイト代を貯め、夏からは塾の定期講座を受けるつもりだと聞いていた。綾子は珊瑚の事情を考慮し、来客がなければ事務所で自習することを許可していた。バイトから帰って家で食事や風呂をすませてから勉強……となると、相応の眠気に襲われてしまう。珊瑚にとってはありがたい話だろう。岸田や軍団が勉強をみてくれることもあるらしい。

 珊瑚の勉強を邪魔したくはなかったが、舞たちもウラシマのことで重要な話がある。珊瑚はそれを察し、勉強道具をバッグの中に詰めこんだ。舞は両手を合わせ、珊瑚に頭を下げる。イチコが社長室のドアを指さし「いる?」と口パクで訊ねると、珊瑚はコクコクと無言でうなずき返す。
 誰から言い出すわけでもなく舞、イチコ、岸田がジャンケンを始める。グーで負けた岸田が、握った手のまま社長室のドアをノックした。
「あら、オナニーをしようと思っていたのに。まあいい、すぐ行くわ」
 ドタバタと物が動く音がしてから、衣擦れの音がして、わずかな間のあと綾子が社長室から出てきた。
「あのさ、姐さん――」
「ウラシマの件なら、お断りよ」
 イチコが話し出す前に、綾子が鉄扇をイチコの喉元につきつけた。
「銀次郎さんからの依頼でしょ? さっき電話があったわ」
 探偵社が抱える9人の無職からなる諜報集団“軍団”。そのメンバーであるシルバーの父が、先ほど会った“おっちゃん”だ。名前が銀次郎であると、舞は初めて知った。

 いつもならイチコは「またまた~堅苦しいこと言って~」などとヘラヘラしながら綾子を懐柔しにかかる。そして大抵は綾子がため息をもらしながら折れるのだが、今日は違っていた。
「なにがあろうと、ウラシマと関わることは認めないわ」
「……」
「……」
 イチコと綾子の刺し合うような視線が真剣のごとく交錯し、火花を散らす。事情を知らない珊瑚があたふたと、ふたりの間に入ろうとするが、舞はそれに先んじて質問する。
「なぜですか、社長?」
「……言えない」わずかな間をおいて、綾子が答える。
「なぜ言えないんですか!」すかさず舞が問い詰める。
「その理由も言えないわ」
 綾子は窓の外に目を向けた。本当に追及されたくないらしい。珍しいことだった。綾子は強欲な金好きで、目立ちたがりで、プライドも高い。だが隠しごとや卑怯なことはしない。むしろ珊瑚の件のように、ひとりひとりに気を配り、適切な対応をしてくれる。イチコが殺されたときは、仕事に関係なく仇討ちに打って出る気概もある。
 だからこそ舞は綾子の反応がショックであったし、異様な事態であると感じた。

 そんな中、イチコはこれまでにない怒りを露にして綾子を睨む。
「言いたくない理由はわかるよ。詳しいことを話したら、10年前に私をウラシマに売ったことがバレちゃうもんね」
「……イ、イチコ! それは、その……」
「ウラシマとの抗争の手打ちに私と、記憶と、名前をウラシマに売った。そうなんでしょ!!」
 イチコは八重歯を牙のように剥き出して叫んだ。その怒声に、舞と珊瑚が固まる。イチコはどんな返送者が相手だろうと、ここまで感情をぶつけたことなどなかった。
「聞きなさい、イチコ! それだけじゃないの!」
「間違ってはいないんだね……もっと早く話してほしかったよ」
 イチコの目の端で雫があふれ、表面張力の限界を迎えようとしていた。それを隠すようにイチコは顔を背け、事務所を飛び出していく。
「イチコさん!」
 舞が叫ぶがイチコには届かない。3階の居住スペースへ続く外階段を乱暴に踏みしめる鉄の音が響く。
 舞はイチコを追いかけて涙を拭ってやりたかったが、事情を何も知らないままでは無理だと考えた。

「社長、話せる範囲で構いません。知っていることを教えていただけませんか」
 舞がどかっと応接スペースのソファに腰掛ける。珊瑚も舞の隣に座った。
「そうね……話せる限りは……」
 綾子は観念した様子で、対面のソファに座って足を組む――

 1964年10月10日。綾子は岸田に命じて車を走らせ、事務所から15分ほどの住宅街にある『洋食屋 イエロー』で日替わりカレーを注文した。店内の天井隅に設置されたカラーテレビから、東京オリンピック開会式の中継が流れている。
 綾子は開会式自体には興味がなかったが、愚かな戦争から20年足らずでここまで復興した日本人には感心していた。魔術を使わずとも、遠隔地の情報を知ることができる技術というものは大したものだと。
 テレビを見ていると、店の女主人がカレーを無遠慮にカウンターへ置いた。愛想はないが味とサービスはいい。辛さを1倍~20倍までカスタムできる店は、当時他にはなかっただろう。長く生きて刺激に飢えていた綾子には、辛さ20倍の突き刺すような刺激はありがたかった。
 岸田の分のカレー(甘口)も運ばれてきたので、共に両手を合わせて一礼してからスプーンでカレーライスを掬おうとしたとき、来店を知らせる鈴がなってからドカッと鈍い音が響く。
 女。黒い艶のある長髪に、黒いジャージの女が店内へ入るなり、うつ伏せになって倒れた。飢えに倒れるなど、終戦直後なら珍しくもないだろうが、今となっては異常だった。
 黒髪の女が、うなされるように声を漏らす。
「み、水……それと腹減った……ハハッ」
 イエローの女主人は攪拌棒を武器のごとく上段に構えるが、綾子は努めて冷静に追加注文をした。
「マスター。日替わりカレーにフルトッピング。あ、まずはバケツ一杯の砂糖水を彼女に。代金は私が持つわ」
 女主人はいつも綾子の無茶を聞き、それを受け入れているのだろう。ペコっと短くうなずき、注文に沿うべく砂糖の入った円柱形のプラスチックボトルに手を伸ばした。
 これが上羅綾子と森川イチコの出会いであった。

つづく。