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小説ですわよ第3部ですわよ3-1

※↑の続きです。

 2023年 3月29日(水) 08:47。
 いつもならば一件目の返送者を轢きにかかっている時間だが、探偵社の仕事は毎週水曜と土日が休みだ。
 舞は目覚ましをセットせず、自然と意識が覚醒した。真冬特有の寒さによる寝起き直後の倦怠感はない。まだ夜は冷えこむものの、すっかり春を迎えていた。だから、なんの後悔もなく寝室のベッドから、するりと抜け出ることができた。快眠によって、昨夜に抱えていた疲れはすべて溶け消えたことを改めて全身で感じる。

 洗面所で歯を磨いていると、まだ眠っている脳の一部も目覚め始めた。同時に昨日の出来事がよみがえり始める。
 宇宙に優しいギャルメイドとの遭遇、ウラシマの反体制派からの依頼、綾子とイチコの過去。とにかく心が忙しかった。
 昨夜、事務所で泣くイチコを落ち着かせて寝かせ、イチコと珊瑚は帰宅した。今後の動向については各々が策を考え、金曜の夜に話し合う……と、探偵社専用のチャットアプリで、綾子から周知されたのが昨日の23時ごろ。「了解」のスタンプを押して、舞はそのま寝落ちした。
 当然、今朝になっても妙案は浮かばない。イチコのことは心配だが、悩んだところですぐに答えが出る問題ではないだろう。こういうときは身体を動かすに限る。舞は毎朝のルーティーンをこなすことにした。

 母はクリーニングの仕事に、妹は大学に(あるいは男漁りに)出かけ、静まり返った居間。そのテレビ棚にあるDVD/HDDレコーダーに、舞は一枚のディスクを挿入する。
『シコアサイズ:貴乃花流運動法』
 画面の向こうで、細身の男性インストラクターが視聴者に挨拶をしているあいだ、舞はテレビの前にマットを敷く。
 シコアサイズとは、第65代の横綱である元力士・貴乃花が考案した、相撲の四股を元にした体操だ。下半身を鍛える運動が主で、一般向けにシンプルにされているが、2~30分やってみるとかなり効く。舞は今年に入ってから毎日続けており、実際かなり足腰が粘り強くなった。不意打ちとはいえ、返送者を吹っ飛ばしたこともある。唯一難癖をつけるとすれば、DVDに登場するインストラクターが貴乃花ではないことだった。彼こそが歴代最強最高の横綱であると信じている舞にとっては残念でならない。

 舞は探偵社に入る前から、事あるごとにトラブルを起こし、そのたびにムカつく相手に相撲技を食らわせてきた。今はその狂暴性を、仕事で有効に活用できているわけだが、あくまで舞は一般人。イチコや返送者の人間離れした戦闘能力と真っ向から勝負できるわけではない。綾子が開発したテスラ缶なる薬品で身体能力をブーストすることで、ようやく互角かどうかといったところだ。多少、身体を鍛えたところでは到底埋められない差がある。
 だが決して無意味な鍛錬ではない。テスラ缶による能力ブーストを底上げできる。自分も戦えれば、イチコの負担を減らすことができるだろう。相棒の力になりたい一心で、舞はシコアサイズを始めたのだった(本当は近所のちびっ子相撲教室に通いたかったが「あなたは大人でしょう」ともっともすぎる理由で入会を断られてしまった。受付の呆れた顔が忘れられない)。

kenshi
★☆☆☆☆ 騙された!
褌一丁の女優を期待していたのに、まったく登場しない。
タイトルに反し、まったくシコシコできません。

ネット通販サイトの『シコアサイズ』レビューより

 シコアサイズを終えると、重さを感じるほど汗がパジャマに染みこんでいた。舞はパジャマと下着を洗濯機に放りこんでからシャワーを浴び、上下ピンクのジャージに着替える。仕事着であるが、今日はまだ身体を動かす予定があった。鍛錬はシコアサイズだけではない。
「ッス、ッス! 一人一殺!」
「ブチ殺すぞオラァ!」
 10時を回ったころ、舞が事務所に着くと、物騒だが馴染みのある声が飛んできた。軍団のレッドとシルバーが、駐車場前のだだっぴろいスペースで格闘技のスパーリングを繰り広げている。ちょうどレッドのパンチをかいくぐり、シルバーが組みついたところだった。
 この無職連中は探偵社事務所の3階に住みこんでおり、予定がなければ朝っぱらから草野球に興じているか、格闘技の練習に汗を流している。雨の日は麻雀、ポーカー、ビリヤード、ダーツ、テレビゲームと遊び三昧らしい。

 シルバーがレッドの胴体に両腕を回し、鯖折りのような形で体制を崩す。そのままレッドは投げられるかと思いきや、全身を脱力しながら捻り、腰投げのような形でシルバーをアスファルトの地面に叩きつけた。シルバーが痛みで上半身を跳ね上げたところに、レッドが追撃のパンチを振り下ろす……寸前でスパーリングは終了した。レッドが手を差し伸べると、シルバーがその手をとりながら、前歯のない笑顔を見せる。
「お前、組みも強くなったなあ。ブチ殺すぞ」
「シルバーさんも、肩の力が抜けて打撃が鋭くなったッスね」
 ここでようやく、ふたりは舞が見学していることに気づき「ウッス!」「ブチ殺すぞ!」と爽やかに挨拶してきた。
「おはようございま~す。ピンキーとMMも!」
 舞は駐車場で停車している車両にも声をかけた。2台は短いパッシングとクラクションを返し、運転手を乗せないまま事務所の敷地からゆっくり発進していく。返送者案件がないときは、散歩に出かけているらしい。

「今日は打撃と組みですね」
 舞はピンキーとMMを見送ってから、練習メニューを確認する。内容はそのとき事務所にいる軍団メンバーの組み合わせで変わる。今日はボクシングが得意なレッドと、密着しての超接近戦を武器とするシルバーなので、打撃と組み技という具合だ。

ブルー :急所攻撃
レッド :打撃(ボクシング、ムエタイ)
グリーン:寝技(柔術)
シルバー:組技
ホワイト:武器術(棒、剣、銃)、空手の型稽古
パープル:暗殺術
ゴールド:ネット上におけるレスバトル
イエロー:カレー
ネイビー:自虐風自慢

格闘技の練習メニューより

 舞は1時間半ほど打撃のミット打ちや、組みつくまでor組みつかれてからの攻防など、ピンポイントの練習をこなした。その後は軍団相手にスパーリングだ。レッドには顎に白鵬式のカチ上げ(に偽装した肘撃ち)を、シルバーには目つぶしからの外掛けを食らわせてやった。
 そうしているうちに時刻は12時を回った。いつもならイチコが菓子パンを食べながら3階から降りてきて、実戦での立ち回りを指導してくれるのだが、今日は出てくる気配がない。昨日のことがあっては仕方ないだろう。
 舞は練習終わりのストレッチをしながら、昼食のことを考えていた。いつもなら、そろそろピンキーとMMが戻って来て、イチコを乗せて行きつけの蕎麦屋に行くのだが、今日はひとりだ(軍団と食事に出かける選択肢は最初からない)。
 帰って冷蔵庫の残り物でチャーハンか焼きそばを作るか……などと考えていたところ、事務所2階のドアが開き、綾子が顔を出す。
「あ、水原さん。ちょっと話があるから、来てくれない?」
 ここで舞はある取引を閃いた。
「昼ごはん出してくれるなら、話聞きますよ」
「ったく、図々しい子ね! わかったわ。上がってらっしゃい」
 綾子は露骨に顔をしかめたが、いつのものことだと諦めてドアを閉めた。舞は拳を握りしめ、ガッツポーズする。

 レッドとシルバーが昼飯がてら草野球に出かけるのを見送り、舞は2階に上がる。綾子も、普段なら出迎えてくれる岸田の姿もない。
「こっちよ」
 くぐもった綾子の声が、社長室の中から向こうから聞こえてくる。入ると、机の上で両手を組んだ綾子と、その傍らでタブレットを脇に抱えた岸田が待っていた。
「これからのこと、私の考えを先に伝えておこうと思ってね」
 舞が質問する前に、綾子が本題を切り出す。
「全面戦争はしない。だけど王からイチコの記憶を取り戻す」
 すかさず岸田が舞に歩み寄り、タブレットの画面を見せてくる。表示されたのは、ある男の写真と名前であった。
「鍵となるのは、この男よ」

つづく。