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人はどのようにしてアロマンティックを自覚するか

アロマンティックやアセクシュアルであることを自覚することは思いのほか難しい。特にシス男性の場合、世の中の男性らしさは性的であることと恋愛に対して積極的であることが結びついているためになかなか自分の恋愛/性的指向に気付けない。

僕は現在ではアロマンティック/パンセクシュアルを自認している。このような自認に至るまでに21年もかかったことは自分にとっても驚きで、なぜなら僕は恋愛ができると考えていたからだ。

実際僕は何人かの人と付き合うこともあった。価値観も含めて付き合ったのはシス女性のみだったこともあり、側から見ればなに不自由ないストレート男性のように見えていたのだと思う。

しかし、僕は恋愛感情というのを理解していなかった。どれくらい分かっていなかったかというと、恋愛感情とは「付き合う」という契約による義務感なのだと真剣に考えていた。
付き合うことによって相手に迷惑をかけないようにしよう、恋人らしい振る舞いをしようという義務感こそが恋愛感情なのだと考えていた。

つまり、恋愛感情がないために僕は自分で「恋愛感情」というものを定義し、創り出そうとしていたのだ。
当たり前だが、そんな感覚では周囲とのズレは深まるばかりだった。気づかぬうちに、僕はあらゆる恋愛文化・規範に違和感を抱えていた。

僕が抱えていた「問題」を箇条書きにすると

  • 外で手を繋げない

  • 彼氏/彼女と呼ぶことへの抵抗感

  • 彼女いるの?に対して「付き合っている人はいます」と遠回しにしか言えない

  • 恋愛作品に共感できない

  • 歌詞に恋愛要素が入っていると嫌悪感が湧くので邦楽が聞けない

  • 相手から明確な恋愛感情を向けられると怖くなる

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付き合っている時に特に感じたのが、相手の「好き」という言葉と僕の「好き」という言葉は別物だということだった。

つまるところ僕は相手のことを恋愛対象としては見ていない、というか誰に対しても恋愛対象として見れないので、人としての親密さを表す好意としての「好き」としか感じなかった。しかし、相手の言葉はそうではなく、そこには絶対的な感覚の差があった。
そのニュアンスの違いが分かるからこそ、相手に対しての罪悪感が常に頭の片隅に引っかかっていた。

 そうしてやっぱり上手くできないと思って別れる。ということを何回か繰り返したのだった。

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転換期を迎えたのは『Ace アセクシュアルから見たセックスと社会のこと』を読んでからだった。僕はそれまでアセクシュアルならアロマンティックであることも確定するかのように考えていた。つまり、恋愛指向は性的指向に追従するとみなしていたのだ。

僕はその時はバイセクシュアルかパンセクシュアルだと考えていたので、必然的にバイorパンロマンティックなのだろうと疑うことすらしなかった。

しかし、この本で取り上げられている人たちは、僕の考える前提に疑問のメスを入れてくれた。
例えば『Ace』の著者アンジェラ・チェンはアロロマンティックだがアセクシュアルだと自認していることが本書で分かる。つまり、恋愛感情は湧くが性的惹かれは感じないということである。 

これがそもそも衝撃だったのだ。僕の周りにはアセクシュアルを自認する友達がいたが、それこそアロマンティックかつアセクシュアルで、この二つの属性はセットで考えることが「当たり前」だと思っていた。

だからこそ、最初にこの本を読んだ際、この人は本当に「アセクシュアル」なのだろうかと疑問に思った。恋愛もしていてセックスもできるのにアセクシュアル?そんな話があるのか?と思っていたのだ。

しかし、読み進めるうちに恋愛指向と性的指向は異なることを知った。さらには性的惹かれと性欲が異なることも分かった。なるほど、お腹が空いているのが性欲の場合のムラムラだとして、なにが食べたいという具体的な好みが性的惹かれなのだということだ。
アセクシャルの場合、具体的な好みはなにもないということになる。恋愛指向と性的指向が分かれていることで、バイセクシュアルでもアロマンティックな人はいるし、またヘテロロマンティックでもアセクシュアルの人がいることを理解した。

そう考えてみると僕の場合はどうだろう。確かに性的惹かれを感じることは魅力的な人なら一定程度ある。一方で恋愛感情は全くと言って良いほど感じないし、恋愛に回収されない関係こそ価値のあるものだと感じている。上記で触れた内容も含めるとかなりアロマンティックに近いということが分かった。

そうして、最終的に僕がアロマンティックであると確信するに至ったのは、僕の周りにいる友達について考え直してみたことがきっかけだった。
つまり、僕の周りにはアロマンティックやアセクシュアルの友達ばかりいたのである。もちろん最初からそのような自認をしている人たちと仲良くなろうと思って仲良くなったわけではない。ただ、気づいたらaro/ace の人たちばかり友達になっていたのである。

同じように恋愛・性文化に乗れていない、そもそも乗る気がない人との会話が楽すぎたし、愚痴の内容も被りやすかったのだろう。共感できる相手にはぴったりな人たちだったのだ。

とはいえ僕の周りの人だって必ずしも最初からaro/aceを自認していたわけではない。それこそ僕と同じように『Ace アセクシュアルから見たセックスと社会のこと』を読んでから自分がAスペクトラムの一員であることに気づいた人が何人かいる。さらっと言っているが、これは本当にすごいことで、この本がなかったら僕たちは自分のセクシュアリティにズレを抱えたまま、うまくいかないモヤモヤをあと数年は重ねたことだろう。

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最後に

自分のセクシュアリティを自覚したからといって、障壁が全て取っ払われたわけではない。アロマンティックもアセクシュアルも、もっといえばAスペクトラムに関するあらゆるジェンダー観はいまだ十分な認知がされているとはいえない。だからこそ、もっと自分達のことを発信していく必要があるはずだ。

例えば、恋愛感情が湧かないというとロボットのような扱いを受けることがある。感情がない人のように誤解されてしまうことがある。

「それは違う」と声を大にして言いたい。
ちゃんと話せばわかるが僕らは普通に感情があるし、人と親密な関係を築きたいと思っている。もちろん、そうじゃない人もいるけれどそれが全てではない、それこそ恋愛感情を持つ人でも関係に距離が必要な人は一定程度いるだろう。それと同じである。

僕らのコミュニケーションでは、ただそこに恋愛というフィルターを介さないだけだ。

だからこそ、世の中の恋愛中心主義な人間関係のあり方にはうまく乗り切れない。それは僕らアロマンティックの人だけではないはずだ。僕はそのような人たちすら巻き込んで、人間関係の多様なあり方を必要とし、求めている。
(アラカワ)


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