見出し画像

雑記09┃INFPであることになぜか後ろめたさを感じる


MBTI診断と私

MBTIが世間を席巻した
(図らずして駄洒落のようになってしまった)
のは去年の今頃であると記憶している。

診断なるもの好きである日本人の気質から
私も元々診断好きでもあった。

しかし、一方でどうせ、当たり障りのないほぼほぼ全員に当てはまることを言って
ふわふわした納得感を覚えさせて、
それで終わりなのでは?
と少しの疑いの念があったことも確かだ。

良いことが書いてあれば
それを喜ぶし、
悪いことが書かれていれば
ゴミ箱に捨てるように早急に忘却の彼方へと葬り去る。

このように、ご都合主義の元に占いのように色々な診断を
使ってきた歴史が私にはある。


そういったわけでともかく、
私は疑念の思いを持ちつつも、
持ち前こミーハーな質に従って
その潮流に乗り、診断をした。

結果はINFP-Tであった。

そのとき、診断結果を見て、
素直に、なるほど、当たっているなと感じた。

なんとなく昔から集団内では上手く
立ち回れずに浮き、
「不思議ちゃん」という称号を小中高と得てきた。

特に女子特有の空気の読み合いや
集団行動に馴染めずに世界を疎外し、
また世界から疎外されてきた。

音楽、芸術に関心を持っているところも
あたっているし、
理想が高いことや、嘘を上手くつけない
というところもドンピシャで
言い当てられた。

確かに、そう言った面々は私にはある。

このように、なんとなく納得感を得て
記念すべき第1回目MBTI診断を終えたのである。


INFPと後日の話

先述の通り世は「大MBTI時代」であるので
各種SNSどこを見てもMBTIの情報だらけであった。

インフルエンサーは質問コーナーでMBTIを発表しているし、そのコメント欄でも自分のMBTIを公表する人で溢れていた。

そのような潮流の中で、
次第に私はあることに気づいた。

MBTI診断の結果に「優劣」がつき始めている。

具体的には、I属性の人をE属性の人が何となく下にみているように感じられることが多かったり、
それから、とりわけINFPは率直に言うと「社会不適合者」のように見なされている場面に時折出会ったのである。


なんども折に触れてはMBTI診断を繰り返す私


それから、診断結果と自分の属性に整合性と納得感を持っていた私も、
自分は「社会不適合者」なのでは?と
疑心暗鬼になるようになってきた。

ハイになっているとき、
もしくは、とんでもなく落ち込んでいるとき、

ふと、
「今ならばMBTI診断の結果はINFP-Tではないのでは?」

と思ってテストを受ける。

が、決まって毎回INFP-Tである。

ごく稀に2、3回ほどINFJとINTPを見たことがあるので、私は分類の境界にいるのかもしれない。
しかし、いずれにせよ私の主属性はINFPである蓋然性が高い。

これまでに、私はMBTIを受けてきた数は裕に30を超えると思う。
そして、何度も同じ「仲介者」の診断結果を見てきた。

頭では70億も存在している人間は16タイプに分類される筈などないと割り切ろうとしている。

なぜ私は16タイプの心理テストにこだわっているのだろう。
なぜ私は診断を受け続けるのだろうか。

コメント欄で見た「誰か」の言葉に私は傷ついているのだろうか。

私はこれまでの24年間、この私という人格を築き上げ、共に歩んできたというのに

INFPという4文字だけでどことなく自分を否定されたように感じるのはなぜだろうか。


毎回、結果のボタンを押す際に、
私は祈っている。
今までとは違う診断になってほしいと願っている。どうしてだろう。

色々と考えてみたが、
これは分類につきまとう運命のようなものである。


例えば、複数の属性が存在したならば、
社会はある属性の人に一定の肯定的な価値を与え
また別の属性の人は相対的に、それとは低い価値を与える。

MBTIはそんな歴史的な法則の一端ではないか、極めて壮大な話に落ち着いたかもしれないが、
私はそのような考えに至った。


自分を認めたい
世間の目に囚われずに生きたい


美術館や博物館を訪れるのが好き
抽象的なものに惹かれる
あの世の世界についてよく考える
歩いているとき、食事をしているときに
つい深い思考にはまっている

このような属性を持っていると、
何だか変わっている、だとか独創的な人だなという見方をよくされる。

先ほども話題にあげたが、
世の中に複数人の人間がいる以上、
一定の「普通」や「常識」が存在し、
発展してくる。

そして、私はその中に入れなかった人間の1人として生活している。

「常識」がなければ人間の社会が成り立つことはないことはほとんど自明の事実なのかもしれない。

それは理解しているし、
私自身も社会の構成員として「常識」がもたらす恩恵も十分に享受している。

それでも、その「常識」が病理に感じてしまう瞬間や、「常識」により自分が疎外されていると思い悩むことが途方もなく多い。

これらは、私が違う属性を持っていたならば
感じることのなかった苦痛なのだろうか?
そう思うと、どうしても辛く感じる。


そんな私であるが、最近、脱構築という思想に出会い、深く感銘を受けた。

脱構築とは、フランスの哲学者ジャック・デリダの思想であり、

「伝統的に用いられる統一的な全体性や二項対立の枠組みを解体し、新たな構築を試みる思考法」である。(コトバンクより)

つまり、例えば、E属性は社会から価値を持たされていて、I属性は相対的にそうではないという枠組みを解体し新たな構築を試みるのだ。

このように、今解せない仕組みがあれば、
枠組みと真っ向から戦うのではなく、
その外に出て、解体するという選択肢がある。

学び続けていると、このような心震える思想に出会いすべてが報われた気になる。

私の感じているINFPへの後ろめたさも
脱構築によって解消させたい。
道は遠いかもしれないけれども。


2024.6.19

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?