“失くす”ということ

“失くす”という言葉を聞いて、あなたはどんなことを思い浮かべるだろう。少し考えてみてほしい。

長年連れ添った恋人との別れ。日々忙殺される中で過ぎ去っていく時間。あるいは、旧友の急死。

人によってそれぞれイメージすることは違う。

これから、私自身が“失くす”ことにより、得たものについて書いていこうと思う。まずは、長年連れ添った恋人について。

 今年の7月、3年半付き合った恋人と別れることを決意した。理由はシンプル。それがお互いの幸せのために必要だと感じたからだ。多分、このまま付き合い続けることもできた。互いに嫌いになったわけでもないし、新しく好きな人ができたわけでもない。それなのに、なぜ離れることになったか。それは、悪い意味で“慣れた”からだろう。付き合うということに。
 付き合いたてのころは、料理を、一緒に作り「このハンバーグ、おいしいね」と月並な言葉を交わしながら顔を見合わせた。お互いの誕生日は、それぞれ相手の誕生日プランを1日計画し、それにそって幸せな1日を過ごした。たとえ、計画通りにいかなくても、相手が一生懸命考えてくれていたことに微笑み合う日々が続いた。
 共に過ごす時間が長ければ、当然付き合うことに“慣れる”ことになる。かつてのような微笑ましい時間は減った。ケンカが多くなったわけではない。むしろ、以前の方が多かった。“失くした”ものは、相手とずっと一緒にいたいという愛情だったのだろう。ずっと一緒にいるための、互いの愛情表現が減ってしまったのだ。だから、このまま無為に時を過ごすより、新しい道を進んだ方が良い。そう思って決断した。
 恋人を“失い”1人で過ごす夏がそこから始まった。そこから得たものは…

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