視線

目で見て何かを判断するわけでもないのに、からまったイヤホンをほどくときや、かばんの中身をさがすときにそちらへ視線を向けている自分に気がつくと、なんだか苦笑いしてしまいます。
昔からの習慣というのは恐ろしいものです。
見えていると思われるかもしれないけど、それは自分にとってよいことなのか、考えたりします。

一方、パソコン作業に夢中になっていたり、音声図書を聞いているときは、視線を意識していないとかなりあさっての方向を向いています。
いや、むしろ天井など完全にあさっての方向をむいていればいいのですが、視線の先にテレビがあったりすると、そちらを見ていると誤解され、話しかけられて集中を削がれることもあります。

見えないのに目を向けてしまうこともある一方で、見ていないものに目を向けて5回されることもあり、視線ひとつをとっても周囲から見える姿と実際の乖離があります。
些細なことですが、こういうことが重なる毎日が、ちょっと寂しい気持ちになります。
違う世界を生きているような気がして。
犬や猫、昆虫が見る世界が人間とは全く異なるように、私たち視覚障害者と晴眼者の見る世界は違う部分があります。

昨日読んだ本で、
「明日から急に目が見えるようになっても、美人を選ぶのは難しい」
という全盲の方の言葉がありました。
そうなんですよね。
社会背景や文化、歴史、経験など、いろいろなものが積み重なって作られた個々人の常識は国、性別、個人によっても違います。
視線が伝える意味も違って当然で、そういうひとつひとつを言葉にして伝え合っていくことが本当は必要なのかもしれないと思う今日この頃でした。

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