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どこまでなら許される?


はじめましての方、改めましての方、こんにちは。ふありの書斎へようこそ。


最初に、この記事のタイトルに興味を持って下さった方々、もしかしたらあなたが抱いているイメージ内容と、酷く異なる内容かもしれません。
けれど…この言葉は好きではないのですが、表面をサッと触れる感覚で読んで頂ければ幸いです。

現在、わたしは心の病を抱えています。
そして、病と並行するかのように、中学時代から個人活動で、物語創作を続けています。本当はコミケなどで作品を、出来るだけ多くの方に読んでもらいたかったのですが、持病の心の病が悪化の一途を辿るので、家族や幼馴染、友人知人に読者になってもらっていました。

個人活動では、モレスキンノートに物語を綴り、読者様に郵便局のレターパックを利用して順番に読んで頂いていました。
内容はカテゴリに当てはめるとしたら、童話や少女小説を執筆していました。

それは自己満足であってとにかく、

自分が読みたい物語

を、書くためにの作業。

自称、アマチュア物書きのわたしが、現在まで蓄積した物語を、もっと多くの人々に読んでもらいたくて、友人の情報からnoteの存在を知り、一人でも読者様が増えると良いなという安易な考えから、noteに登録しました。

童話や少女小説をメインに綴ってきたわたしが、本当にnoteで書きたいこと、読みたいことは自分の精神疾患の悩みなどの告白や、相談であり、けれど…どうしても意識してしまうのが、現在のいわゆる心の病に対しての、偏見や差別。

例えば、わたしは○○病を抱えていて苦しんでいる。
もし、noteのクリエーターさんの中に同じ病を抱えられている方がいれば、そこで病と闘う同志みたいな関係が芽生えるかもしれない。

けれど、心の病を知らない人達に、わたしの病名を告げても❔解りません。
でも悲しいかな…当然のことだと思います。

もし、家族や知人、友人恋人が心の病なら理解できるかもしれませんが、身近にそういう存在がないと、ただ病名を告げても、症状を伝えても、同情は得られても、病の核心までは殆ど理解されない…
どんなに相手の病の苦しみを愁いでも。これは、わたしの実体験からの告白です。

わたしの母が、かなり昔にパート先の職場で、とても嫌な思いをしたという話をしてくれました。仕事中に、たまたま側で仕事をしている男性2人組が、
男A「○○の奴が鬱病になったんだって」
男B「えっ、マジで?」
男A「鬱病がうつちまうよなーハハハ」
男B「だよなー。俺もう○○に近づくのやめよー」
という、心無い会話に母は内心怒り心頭だったといいます。

明日は我が身。


鬱病は感染する病ではありません。そんなふうに、人の病気をけなしたり、馬鹿にして談笑するなんて、わたしには恐ろしくて出来ません。そういう心の貧しい人は、怒りを越えて逆に可哀想な人達だなと思いました。

それに、可哀想な2人組の男性も、この先の将来、鬱病ではなく、なにか重たい病に見舞われる可能性は十分あると思われます。そのことについて馬鹿にされたり、軽蔑されたりしたら、精神的にどんな気持ちになるでしょうか。
それがもし、鬱病だとしたら…あの時の、昔の自分の発言に酷く後悔すると思います。

だから、
人の病に偏見や差別はしないほうが良いのだと思います。
どんな病気だったとしても。

心優しい自分になりたい。

わたしは、どんな病を抱えている人に対しても、すこしでもその病を認め、例え難しい病だとしても出来るだけ寄り添いたいと思っています。
現在、統合失調症と合併症に苦しんでいますが、この病になってしまい、苦しいの一言では足りないほどの苦痛を、今なんとか投薬で抑えていますが、薬がなければ恐らくnoteで執筆している自分は存在しないと確信しています。
けれど、病を患ったことで、同じ病を抱えている人の苦しみを理解できるし、精神疾患を患っている人には、もう良くここまで苦しみに耐えてきたね、頑張って生きてきたね、と今後は病を分かち合い、少しでも症状が改善されると良いね、と伝えたいです。(綺麗事の様に聞こえるかもしれませんが…)

自分の持病について、どこまでならカミングアウト出来ますか?

そして、noteにどこまでなら心の病について、その闇について語ることを許されるのでしょうか?


次回は、ちょっと硬い内容になってしまった今作とは相反して、いつもの自称・個性派アマチュア物書きの、ふありの書斎の、ちょっとした自分紹介のQ&Aに挑戦したいと思います。

それでは、良い一日を。

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