バランスのよい物事の見方至上主義の話
最善の物事の見方ってどんなのだろうかと思ったときに浮かんだ話です。
私は理想的な物事の見方を考えるとき、
「できるだけバランスよく、公正に」が大事かなと考えています。
バランスよくっていうのは、
「性質を極端な要素(悪とか善とか)に限定して捉えずに、一歩引いて様々な要素を検討すること」です。
そうすることによって、客観的に、そして柔軟に物事を捉えられるかな~、これが最善な見方ね!と思っているので、私もそうなれるよう意識しています。
でも、ところがどっこい、気づいてしまうのですね。
そもそも、
この考えって「バランスよく客観的に物事を見るのが至高」って言ってるのと同義ですよね……!?
「バランスよく客観的に物事を見るのが至高」という方針で
「バランスよく客観的に物事を見るのが至高」という物事を見ると
とても矛盾しています。バランスよく物事を見れていないことになりますね。
かといって、バランスよく物事を見る方針で見た結果ですから、バランスよく物事を見ることを肯定しながら否定しています。
いわゆる、二律背反ですね。一回使ってみたかった言葉です。
つまり、私が目標としていたものは二律背反、不定形で、宙ぶらりんなものだと気づいてしまったんです。
「どちらが正解で......どうすれば矛盾が解消できる……」
そう思っていた時に、
「いまのこれって、私が危惧していた極端な見方の沼にハマってるのでは」と
そうです…この考え方は極端なんだと思います…
二律が同時に存在してはいけないという固定観念が薄らと透けて見え、
二律背反は存在してよいという視座に欠けます。
以上のことから、「バランスのよい見方」を意識していても、固定観念などの影響で簡単に「極端な見方」になる可能性があるんですね。たぶん……
結論を出すのは早計極まりますが、
ここで私は「極端な見方」を危惧していることから、
結局私の根幹は「バランスのよい見方」至上主義者であり、
この公式は私の根幹を問い直すときにも例外なく適用されます。
つまり、私は「バランスのよい見方」に囚われたという、皮肉の権化となります。
(本来「極端な見方」を悪いものとしてとらえず、フラットに見ないと「バランスのよい見方」になりえないはず…)
ここで…以上の文章は何だったのだろうかと今思っています。
結論は拍子抜けだし…ロジックとしてみるとかなり無為に近いと思います。しかも、「バランスのよい見方」なんてこうやってぬるま湯につかって余裕のある時にしかできないのでまるで実戦的でもない。
この思考が何かに実を結ばせることがあればいいんですけど…
これは、誰かが答えのない問いが存在するとか、なにごとにも意味を見出せとか、そういう示唆なんでしょうか。
わからないもうすべてがわからない…
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