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志望理由書の指導を頼まれると… #3推薦入試編

 平成二桁になった頃、推薦入試を希望するのは女子生徒さんが多かったです。「男は受験、女は推薦」のようなことを言う保護者の方もいました。
 保護者の方には、まだ「大学進学も花嫁修業」という価値観が残っていたのかもしれません。 

志望理由書・小論文を誰が指導するのか

 この頃、推薦希望者の志望理由書や小論文、国公立2次入試の小論文指導は、「担任、もしくは国語の先生」でした。
 要するに、希望する生徒さんが指導してもらう先生を選ぶ時代。
 生徒さんは、自分なりに「志望理由書」を書いてきて、それをおずおずと差し出しながら、「読んでいただけませんか」と言います。
 私の場合は、その場でコピーを取り、「放課後までに読んでおくから」としていました。放課後に感想などを伝え、「他の先生にも読んでもらって、いろんな意見をもらうんだよ。私の感想が絶体ではないからね」と言うと、それでおしまいの生徒さんもいましたし、書き直してきて、「これでどうでしょうか…」と継続する生徒さんもいました。
 学年や進路指導部が音頭を取って、組織的・計画的に指導するようになるのは、もう少し先のこと。国語で担任だと「逃げ場がない」時代でした。

生徒さんが書いてくる志望理由書は

 大きく2つのパターンがありました。
 一つは、非常に硬い文体で、論文っぽく書いてくるもの。
 一つは、当時増えてきた「小論文の参考書」の模範解答的なもの。
 「う~~~ん」です。どちらにしても、「本当の志望理由」は書かれていませんし、その大学が求める人物像の理解もありません。
 「そういうことじゃないんだよね」とストレートに伝えると、「イップス」になり、文章そのものが書けなくなります。いわゆる「ダメなものはダメ」というと、ハラスメントになる時代のはじまり。
 さて、これをいかんせん…です。

文章のスタイルを整理してみる

 これは、私自身が「推薦書」を書く時に意識していたことです。
 「推薦書」というのは、ある意味で「主観的」なものではないでしょうか。もちろん、論理性や客観性は求められますし、そのように書きますが、「この生徒さんは推薦に値する」という担任の評価は、所詮主観に過ぎません。
 そう思ってから、「学術論文的な書き方」を辞めました。
 「推薦書はエッセイ」と思うと、その方が、その生徒さんの持つ個性を書きやすく、表現しやすく、伝えやすいような気がしたのです。
 というわけで、文章のスタイルを以下のように整理しました。
 ①「エッセイ」 主観起点
 ②「レポート」 報告起点
 ③「論文」   考察起点
 というわけで、生徒さんには「あなたの考えだけでなく、感じたこと、思っていることも書いてきて」というようにしました。
 志望理由を「考察」すると、一般論・模範解答的な方向に集約されやすいようです。そこで、いい意味で「考察」を手放してもらいました。

教育学部志望の生徒さんによくある例

 多くの生徒さんは、「理想の先生像」を書いてきます。あるいは、主語を大きくして「日本の学校教育の課題」を述べ、自己の受けてきた教育を否定し、「理想の教育」を述べようとします。
 これに対し、「あなたは、いつ、どこで、なぜ先生になろうと思ったの」と問い返します。つまり、教員志望の原体験・出会い・ロールモデルとなっている先生などの記憶を呼び起こすのです。
 すると、おずおずとそのことを語り始めます。
「多分、それが志望理由なんじゃないのかな…」
「これが志望理由でいいんですか?」
「今聞いたのは原体験だから、志望動機かもしれないけど、ここから志望理由に発展できそう?」
「できます」
 となると、翌日には書き直したものを見せてくれます。

                       つづく

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