教員としての試練が始まる その4(C君のケース)

一部の生徒グループが学年全体を支配し始める

 6月、高校3年生の担任の一人が、学校に来なくなりました。
 教員になって初めて担任を持った先生です。その先生なりに一生懸命ではあったのですが、実業高校の生徒さんに、わかりやすく数学を教えるというのは難しかったようで、まず授業が成立しなくなり、クラスもうまくいかなくなり、学校に来なくなってしまいました。
 この頃から、一部の生徒さんたちによる授業妨害、先生に対する威圧行為が日常化するようになってきました。さらに、毎日校内で何かが壊れるようになってきました。
 その中心になっていたのは、8名のグループです。私のクラスでは、A君、B君がそのメンバー。よく観察すると、私のクラスではない、C君がボスの一人のようです。
 C君は、8名の中では、最も感情の起伏が激しく、教員や友人に対する「馴れ馴れしさ」と「暴れ始めた時の手の付けられない暴力性」とが同居していました。

C君とはどういう存在なのか

 感情の幅は広いが、制御は苦手。
 ただし、学校の成績でひっかかることはない。宿題・課題・授業時の小テストなどへの取り組みは良いとは言えませんが、定期考査では平均点以上を取り、赤点を取ったこともない。
 また、処分歴が1回しかない。2年生の時喫煙でつかまった以外、決してしっぽを出さない。仲間から売られたこともない。A君のように、保護者の方が、我が子をかばって学校・先生と対立するということもない。B君のように成績がギリギリで進級に苦しむこともない。
 あと、日常では相手を見て対応を変えることもできる。彼から見て「やばい先生」の前では大人しくするか、あるいは親しく接する。「反省していますという演技」もできる。一方で、「暴力で支配できる先生」に対しては容赦なく攻撃をかける。知能犯なんですね。
 そして、それを可能にしたのは、当時の世間・職員室にあった「子どもたちを力で抑えつけらない先生は無能」という価値観。C君に暴力で支配されてしまう、授業を荒らされるのは、その先生が無能だからという価値観が、大人にもあったのです。逆に言えば、「やばい先生」とは、暴力に対し、それ以上の暴力で制圧していたということ。そういう時代だったのです。

荒れが可視化され始めた時、どうしていたか

 田舎の学校です。
 通学手段は、「徒歩」「自転車・バイク」「保護者の送迎」「JR利用」。 
 問題は、JR利用です。田舎ですから2両編成で本数も少ない。
 8:45分の始業に間に合う列車は、7:40分に最寄り駅に到着。これを逃すと、次は10時台。駅から歩いて20分ですから、JR利用の生徒さんは朝8時には学校にいます。モノが壊れるのはこの時間と推測しました。ちなみに、C君は「JR利用」。
 そこで、私は早めに出勤し、C君たちが登校する前に学校に入り、教室前の廊下や玄関などの清掃をしました。モップをもって廊下を往復したり、ごみ捨てをしながら敷地内の目の届きにくい場所をウロウロしてみました。
 想像とおりというべきか、外から大きな叫び声・喚き声が聞こえてきます。C君とその仲間たちです。「むかつく」「○ね」などの言葉を吐きながら登校してきました。
 掃除をしつつ、おはようと声をかけました。そのまま、モップをもって彼らの視界の外に出ます。本音は、校舎内を監視して破壊行為を予防することです。それは生徒さんたちも感じたでしょう。しかし、生徒さんと同じように、先生も掃除をしているという建前を貫きます。これを夏休みまで、学外出張で出勤しない日以外、休まず続けました。
 結果から言えば、これ以降、平日に校舎が破損する、消火器が噴射されることは激減しました。その代わり、私は毎日朝7:30分には出勤していました。

朝の清掃をしているとこんなことも

 学年には、8名の生徒さん以外にもいけないことをして処分を受ける生徒がいます。あるいは、他県の先生が不祥事を犯したという報道が流れる日があります。そういう日は、朝から8名の生徒に囲まれます。「なんでだよ」「処分は許さない」「先生は信用できない」「謝れ」などですね。知能犯ですから、処分されるかされないかのギリギリの線で迫ってきます。
 そういう状況に対し、私は恐怖や怒りを感じるスイッチを切って対応しました。冷静に理詰めで正論で対応しました。ディベートで論破するということではありません。
 彼らの感情論的な要求に対し、一人の人間として承認できないということ、先生という立場では言ってはいけないことを明確に提示しました。だから、その要求にはこたえられないということです。
 
                続く…
 
 
 
 
 



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