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突然吹奏楽部の顧問となる(16)

 吹奏楽コンクール県大会で金賞・代表となりました。
 とてもうれしいのですが、お盆明けから、大学受験のための課外講習が始まります。また、合唱部のコンクールはこれからです。そして、合唱部も県大会を抜けて地方大会にコマを進めました。

県大会から地方大会までの日々

 各楽器のレッスンに来てくれていたOBの音楽家の方に、合奏もみてもらいました。コンクールのため…というよりも、一流の音楽家の方と一緒に音楽をする時間という感じです。これは、最高に楽しい時間でした。
 普段はとても紳士で、丁寧な言葉使いの音楽家が、合奏でアツくなって「卒業生モード」に入るのも面白かったです。日本を代表するオーケストラの奏者ではなく、単なるOBになるんですね。まず「みなさん」が「おめーら」になります。
 「フォルテ」の指示が、「F高校の魂が足りねーぞ。もっと気合の入ったフォルテだ!」になります。「自分の頭で考えろ、もっと感じろ、感じたままに演奏しろ、もっと自由に表現しろ!!」
 こういう言葉で、部員の表情と演奏が劇的に変わるのです。
 これは、やはりF高校のDNAというか、そういうものを共有している人間同士の言語なんですね。同じ言葉を私が言っても駄目だと思います。
 G中学のH先生は、クラリネットのリードをどっさり寄付してくれました。県内の中学・高校で吹奏楽部の顧問をしているOBからは、「いろいろ大変でしょ。自由に使って」と高額な寄付をいただきました。部員と相談して、ティンパニのヘッドをいいやつに交換しました。
 残念だったのは、Sさんに合奏をみてもらえなかったこと。Sさんは地方大会の審査員になっていました。

地方大会の結果は

 銀賞でした。全国には届きません。
 しかし、部員は本当にいい音でいい演奏をしてくれました。
 銀賞だったのは、私の指揮者としての能力です。もう、私の棒では手に負えないバンドに成長しています。もし、音楽のことをよくわかっている人が振っていれば金賞で、ひょっとするとその先もあったのではないかと思っています。
 表彰式後のミーティングで、私は部員に詫びました。もう、それ以外の言葉がでませんでした。
 そんな私を、三年生が慰めてくれました。地区予選から今日までの日々が一番充実していて、今日の演奏が一番楽しかったと。
 そして、審査員として演奏を聴いてくれたSさんがわざわざ私たちを探してきてくれました。
 「3年前出会った時、このバンドがここまで来るとは思わなかった。ここで出会えるとは正直思っていなかった。でも、今日、みんなは奇跡を見せてくれた。ありがとう。」

そして倒れる

 地方大会から戻ると、間もなく新学期です。
 私の地方大会が終わったところで、学年主任と進路指導部長主催の「課外講習担当者お疲れさま会」がありました。
 たしか、水曜日の夜だったと思います。参加者は8人くらい。駅前の居酒屋の個室で、それぞれの手ごたえや反省などをざっくばらんに話し合い、お互いを称えあい、慰めあう(?)気軽な集いです。
 1時間ほど経って、トイレに立とうとして、めまいがしました。
 ここで記憶が途切れています。
 目覚めたとき、私は病院で点滴を受けていました。
 えっと思って、周囲を見ると、右手に学年主任がいました。
 何か言っていますが、よく聞き取れません。
 ドクターが来ました。名前を聞かれ、指の本数を聞かれ、聴診器をあてられました。気分はどうですか…と聞かれ、少し耳鳴りがすると答えました。
 診断は、脳貧血、あと突発性難聴。右耳がほぼ聞こえなくなっていました。
 「過労ですね。少し休んで下さい。F高校の吹奏楽部の先生ですよね。娘がお世話になっています。娘から先生のことは聞いています。地方大会まで連れて行っていただき、本当にありがとうございました。苦手な国語の偏差値があがってきたのも、先生のご指導のおかげと聞いております。」
 救急車で運ばれた先には、F高校出身の医師がいて、その医師は吹奏楽部の保護者でした。田舎暮らしの醍醐味(笑)。
 救急車で運ばれて、ベッドに横たわって点滴受けながら、「娘がお世話になっています」といわれて、どう返せばいいのでしょう。
 「入院してもよいのですが、ご自宅でゆっくりされた方がよいと思います。奥様はどうお考えですか」
 というわけで、点滴を終えた後、妻の運転で自宅に戻りました。

断片的な記憶

 学年主任や、お疲れさま会に集まった先生方、お店にご迷惑をおかけしたな…と思いました。あとでお詫びに行かないとと妻と話したことを覚えています。
 続けて、私はこんなことを言ったそうです。
「吹奏楽部の顧問は本当に終わりにする。もし、来年度も顧問と言われたら、辞めようと思う。」
「収入とかは不安定になるけど、塾とか、予備校に戻ってもいいかな」
「娘が来年4月から小学生になるから、もし東京に戻るなら、このタイミングがいいよね」
 この部分、私の記憶にはないのです。もう少し掘り下げて言うと、県大会以降の記憶があいまいというか、思い出せないことが多いです。
 思い出すのは、「朝ファミレスで課外講習の準備をしていたこと」「とにかく合奏の音が美しかったこと」「娘が、いつの間にか自転車の補助輪を外して自走(爆走)していたこと」です。
 そういえば、妻と娘は、地方大会を聞きに来てくれていました。
 娘は、会場のロビーで女子部員に遊んでもらってとてもうれしそうでした。その姿を見て、妻と娘に負担をかけていることを実感しました。
 学校の先生になったことを後悔しました。
                     つづく… 

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