荒れた学校の先生たちは

 海沿いの街の実業高校のお話。
 3年生8名が、校内のものを壊す、授業妨害、教員に対する威圧行為などをおこしました。先生になって初めて担任を持った先生の授業とクラスは6月に崩壊し、その先生は病気休養となりました。学年主任は1学期の終業式の日に失踪しました。就職試験の期間は静かでしたが、内定をもらったことで、「今までの恨みを晴らす」と言って再び暴れ始めました。

再び暴れ始める生徒たち

 制服のスカートを短くするようになってきたのは、平成7年頃からです。
 それに呼応して、性別を問わず制服を崩して着る、髪を染めるなどの状態が日常化してきました。服装違反ですね。
 髪を染めても「地毛だ」と主張する。地毛が茶色い生徒を指さして、「あいつも茶髪だ、黒くさせろ」と言い始める。その生徒の髪をつかんで脅すことも…。ちまたで話題の「地毛証明」は、こうした乱暴な生徒から「地毛の色が薄い生徒」を守るための方策として生まれたものです。
 こうした状況に対し、学校は「就職試験では服装・言葉遣いなども判定材料である」ことを根拠に、服装指導をしていました。学習の動機も同じ。確かにその通りなんですけどね。
 しかし、それ以上に、ルールの意味、学びの価値などの「本質」について考えること、示唆することはなかったようです。その背景には、「うちの生徒はバカ」「力で抑えることが教育で、それができない先生は無能」という価値観がありました。
 高校3年生の10月になれば、生徒さんたちは「就職の内定・専門学校の合格」を勝ち取ります。そうなれば、もう制服をきちんと着ること、ルールを守ること、先生の言うことに従う理由はなくなります。
 今風に言えば「無敵の人」と化します。
 10月からはどんな状況であったかというと、殺人以外は全部経験したということになります。私は、ナイフを振るわれました。けがは大したことなかったのですが、特別な日に着る(その日は地元商工会への挨拶があった)アルマーニのスーツの上着、当時の金額で8万円相当が着れなくなりました。

先生方の心身に異常が出始める

 女性の先生は、卒業式の日まで生理が止まったそうです。生徒指導主任は血尿、6月に病休になった先生の代わりに入った私と同世代の先生は7キロ痩せました。
 私はと言うと、前回書いたとおり、今でもこの期間のことがよく思い出せません。部分的に記憶が欠落しているのです。思い出すのは、出勤途中に車が止まってしまったこと。エンストかと思ったのですが、そうではなく、右足がアクセルを踏めなくなっていたのです。また、この頃、駐車場に車を停める時、バックだとまっすぐ入らないようになりました。どうしても少し斜めにしか入らないのです。車の運転、好きで得意なのですが…。この症状は、年月が経った今でもそのままです。
 私以外の3人の先生の心身の異常は、職員室の空気感もその原因でした。教務主任が「生徒を抑えつけることができない教員は無能である」という価値観を示し、3学年の先生方に圧力をかけるのです。
 保護者も言いたい放題でした。
 この頃、8名の中の一人が処分を受けました。謹慎期間が終わり、登校するようになると、その父から「先生方に相談がある」という依頼がありました。相談内容は、「先日、うちの子が処分を受けたが、そのことで我が子を特別扱いと言うか、色眼鏡で見ないでほしい。事件が起きた時、先日のように根拠なくうちの子供を疑ったり、犯人と決めつけないでほしい(いや、先日の件は、被害者があなたの子供が犯人と訴え、カツアゲした財布があなたの子供の鞄の中から出てきて、本人も自分の犯行だと認めましたよね。それをお父さんも確認していますよね)」
 文章で書くと、紳士的な申し出のようですが、実際にはかなり威圧的。
 夜道には気をつけた良さそうな空気感。
 そんなことを報告すると、教務主任は「そんなことを言わせるのは、先生がダメだからだ」と言い放ちます。 

先生と言う存在への過剰な依存と反発

 私のクラスと授業とは、ギリギリのところで保っていたようです
 暴れる8名のうち3名は私のクラスです。しかし、その3名は、私の前、あるいは私に対しては暴れませんでした。8名と一緒の場では、私を取り囲むこともありましたが、8名と一緒ではない場、別な言葉で言えば3名だけであれば、担任と生徒という関係性は維持できていました。特にA君、B君は一学期から夏休みにかけて処分を受けましたが、そのことを通して保護者や本人との関係を構築できたのが、幸運だったと言えるでしょう。「禍を転じて福と為す」ですかね。
 そのせいか、たとえば、別のクラスであるC君が私に凄んでくる場に、私のクラスのA君、B君がいると、彼らは少し困惑したような微妙な表情になるのです。要するに、C君が私に凄んでいても、本来その対象は私ではないことなんです。「今までの恨み」ですからね。強いて言えば、「先生だから」であり、「先生であれば誰でもよい」のです。だからC君が私をターゲットにすることの理不尽さ、無意味さを3名はわかっていたようです。しかし、ボス格であるC君に表立って逆らうことはできません。
 そもそも、彼らが一番恨んでいるのは「教務主任」なのですが、一番恐れているのも「教務主任」なのです。だから、教務主任には手を出せない。そこで、「弱そうな先生」をターゲットにした。その先生はいなくなった。
 2学期になると、他の生徒たちは8名を相手にしなくなっていました。8名は校内で味方を失い、同学年の生徒の中で孤立していたのです。そこで、下級生にちょっかいを出すようになる(いじめ)。そのことで処分を受けると、あとは学年の先生方しかかまってくれる対象がない。
 のちに伺った話では、地域でも噂になり孤立気味だったとのことです。そうですよね、通学の列車内や駅で喫煙していたり、地元スーパーで万引きやカツアゲをして警察に通報されれば、ネットより早く地元の人々が知ることになります。
 「先生方に相談がある」と言って来校し、「うちの子を色眼鏡で見ないでほしい」と言ったお父さんは、この頃、父子そろって地域から孤立していたのかもしれません。
 そして、地域でも学校でも孤立を深めていた8名が頼れるのは、逆説的ですが、「先生」しかおらず、居場所は「学校」しかないということになります。就職や進学のことになると笑顔で媚びを売り、自分に都合の悪いことだと威嚇・脅迫する。その行動パターンは親も同じ。そんな彼らも、現在は40歳を過ぎ、親となって小学生か中学生の子供がいるでしょう。同じことが繰り返されていないことを祈るだけです(しかし、ちまたの報道をみると、同時の状況が繰り返されている印象を受けます、個人の感想ですが)。

授業の準備だけはきちんとした

 そういう日々ですから、教材研究が現実逃避であったことは否めません。しかし、こんな時だからこそ、授業をきちんと成立させる、生徒さんたちの知的好奇心をくすぐることが重要という意識はありました。
 実業高校ですから、大学入試を意識しない授業が可能です。難解な評論は最小限度にし、小説を作家論や作品論の観点で分析し、授業を構築していました。
 「鼻」「羅生門」(芥川龍之介)、「セメント樽の中の手紙」(葉山嘉樹)、「初恋」(島崎藤村)などが、やたらと受けたことを記憶しています。その際、それぞれの作家の生涯を紹介し、それがどのように作品に反映されているかを一緒に考えました。
 暴れる8名の生徒たち以外の生徒さんが、全員まじめかといえばそうではありません。いろんなことがありました。しかし、そういう生徒は一部であり、多くの生徒は人間として尊敬できる人でした。そんな生徒さんに対して学びを伝える、文学を伝えることは楽しかったです。
 あるクラスでは、俳句の創作を行い、それを冊子にまとめました。そこに描かれたのは、荒れる学校の生徒の作品とは思えない、瑞々しく美しい作品でした。事務長と教頭が喜んでくれました。
 
 後半は少しいい話になっていますが、それは「つらい記憶は思い出せない」ことの裏返しとご理解ください。
 そして、私は教務主任に交渉して、あることを始めます。
                  
                    つづく…

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